普通の人間がどれほど強い心を持つことができるか。それを企業小説の形で描いた作品だ――月村了衛『白日』

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

白日

『白日』

著者
月村 了衛 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041098844
発売日
2020/11/10
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

普通の人間がどれほど強い心を持つことができるか。それを企業小説の形で描いた作品だ――月村了衛『白日』

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

書評家・作家・専門家が《今月の新刊》をご紹介!
本選びにお役立てください。
(評者:杉江 松恋 / 書評家)

 気がつけばうつむいて、下ばかり見て歩いている気がする。

 足元に黒々と広がる影の形で、肩を落として疲れ切った姿でおのれが歩いていることを知り、頭上から照りつけてくる陽光の烈しさを改めて意識させられる。

 顔を上げなければ、太陽の明るさには決して気づけないものだ。

 月村了衛『白日』の主人公・秋吉孝輔は、無意識のうちにうつむいて歩いてしまっていた男だ。一つの出来事がきっかけになり、白日の下でも背筋を伸ばして歩くことができるようになりたいと願うようになる。これまで主として犯罪小説の分野で活躍してきた作者が、改めてごく普通の、昼のオフィス街を見渡せば何人でも見つかる人物を主役として小説を書いた。

 秋吉は千日出版の教育事業局に属している。彼が指揮役として進めているのは、通信制高校を新たに設立するプロジェクトである。普通科で学ぶことができない訳ありの生徒が入学するものという印象がつきまとう通信制高校だが、受け入れ態勢を手厚く準備し、高度な教育を提供しようとしていた。そんな中で、事件が起きる。プロジェクトの責任者である梶原局長の長男が不審な状況下で転落死を遂げたのだ。どこからともなく、ひきこもり生活の果てに世をはかなんでの自殺ではないか、という噂が流れてくる。

 秋吉の娘・春菜はかつていじめを苦にして学校に通えなかった時期がある。亡くなった梶原幹夫は、春菜が自分を取り戻すために進んで声をかけてくれた秋吉家の恩人なのである。そのことを思うと、秋吉には彼が人生を投げだすような真似をするとは到底思えない。しかも、梶原局長が文科省と癒着した関係にあり、不正を働いていたという疑惑までが浮上してきたのだ。そうした風聞が表沙汰になれば、プロジェクトは開校前から致命的な打撃を受けることになるだろう。疑惑が存在することを明るみに出して、世間に信を問うべきか。それともすべてを隠蔽してこのまま事業を進めるべきか。立場上、難しい選択を迫られることになった秋吉は、部下の前島と共に梶原の身辺で何があったのかを調べ始める。

普通の人間がどれほど強い心を持つことができるか。それを企業小説の形で描いた...
普通の人間がどれほど強い心を持つことができるか。それを企業小説の形で描いた…

 謎が存在し、それを解くことが事態の打破につながるという意味ではミステリーの構造を持ってはいるが、物語の主眼は別のところにある。秋吉が何を信じ、どんな選択を下すかという人生の決断を描く小説なのである。

 千日出版の内情は一枚岩ではなく、社内は二つの派閥に割れていた。現在の主流派である梶原の身の上に椿事が持ち上がったことは、敵対派閥にとっては追い落としの好機だったのである。人の死、しかも若者が命を落としたという痛ましい事態がそうした社内政争の具として使われるということに秋吉は嫌悪感を覚え、自らがなすべき道を模索するようになる。作者が巧みなのは、彼を中間管理職の地位に置いたことで、会社幹部からの圧力、部下からの突き上げがあるために、秋吉は冷静になって考える余力をどんどん奪われていく。自分である前にまず組織の一員であるという会社人間の悲哀だ。人事課の飴屋という男が秘密警察よろしく暗躍することに秋吉が恐怖を感じる場面など、他人事とは思えない、と感じる読者も多いのではないだろうか。

 すべてを失いかねないところまで追いつめられた秋吉は、しかし意外なことから踏みとどまり、自分を見つめなおす強さを取り戻す。自分が親であり、組織の一員である前に一個の人間であるということに気づくのだ。ある人物に向かって彼は言う。

「正直に言おう。私は今までいろんなものを怖れていた。大人だからだ。大人だから理不尽なことに対して何も言えなかった。私は自分自身で、いつの間にか自分達の理念を踏みにじっていたんだ」

 うつむいていた男が顔を上げ、真昼の太陽を見据える覚悟を決めたのである。

 脚本家から二〇一〇年に発表した『機龍警察』(ハヤカワ文庫JA)で小説創作に転じた月村は、主として犯罪小説の分野で実績を築き上げてきた。受賞歴は多いが、中でも二〇一九年の『欺す衆生』(新潮社)で第十回山田風太郎賞を授与されたことは記憶に新しい。月村は二〇一八年の『東京輪舞』(小学館)以降、続けざまに戦後史の暗部を描く事件小説を発表してきた。『欺す衆生』は豊田商事事件を題材にした長篇だが、家族を愛しつつも手を染めてしまった犯罪から抜け出すことができずにいる男の心中を描くことを主題としている。『白日』はその家族小説の側面をさらにつきつめた作品であり、もはやミステリーや犯罪小説といったジャンルの枠組みを必要としなくなった、作者の力量を改めて認識させてくれる。家族を愛している。それに恥じない自分でありたい。男にそんな真情を語らせるだけで一つの長篇が書けてしまうのだ、月村は。これって、すごいことじゃないか。

▼月村了衛『白日』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000382/

KADOKAWA カドブン
2020年11月11日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク