新型コロナウィルスの影響で激変する小売企業の経営――『小売経営論』の社会的な役割を考える

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小売経営論

『小売経営論』

著者
高嶋 克義 [著]/高橋 郁夫 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/経営
ISBN
9784641165656
発売日
2020/06/17
価格
2,860円(税込)

書籍情報:openBD

新型コロナウィルスの影響で激変する小売企業の経営――『小売経営論』の社会的な役割を考える

[レビュアー] 高嶋克義(神戸大学大学院経営学研究科教授)

小売業の社会的地位

 小売経営の教科書で期待される一つの役割として、小売業の社会的地位を高めることがある。慶應義塾大学の髙橋郁夫氏との共著による『小売経営論』でも、その目標にわずかでも貢献できればと願っている。もし教科書が産業の社会的地位の向上に寄与できるとすれば、教科書のもたらす専門的な知識が産業の発展に結び付く効果があるということになるだろう。

 この小売業の社会的地位に関しては、イオン名誉会長相談役の岡田卓也氏が『日経ビジネス』2019年12月9日号のコラムで次のように語っている。「1954年、イオングループの前身である岡田屋の社長だった当時のことだ。岡田屋の本社があった四日市市の商工会議所では55人の全議員のうち、小売業の出身者は私を含めて2人しかいなかった。」「そこで、商工会議所のメンバーだった地元の小売り関係者に声をかけ、10人を当選させられるだけの委任状を集めた。満を持して議員の改選について会議で提案したところ、古参議員はこう言い放った。「小売業なんて、雑魚じゃないか。一体、誰が議員になるのか」。公然と侮辱され、悔しさが胸に込み上げた。」「国内外のグループ従業員は58万人を超えるまでになった。それでも「小売業の社会的な地位は高まったのか」と問われると、手ごたえはまだない。」

 現代では、かつてよりも小売業の社会的な地位は高くなったが、メーカーの「ものづくり」に対比されるような小売業の誇りや評価を聞く機会はまだ限られる。岡田卓也氏もこのコラムで「地域の人々が毎日のように訪れ、多くの人を雇用する小売業は、もっと評価されていいはずだ。小売業が社会で果たす役割が正しく評価されることを心から願っている。」と述べている。

 小売研究を行う大学の研究者としても同様に思うところがある。小売業の社会的役割が適切に評価されない理由には2つある。1つは、学生や一般の人々に小売業の話をしても、顧客として接した印象や学生がアルバイトで行った経験の範囲を超えて、目に見えないバックヤードや企業の戦略のことに理解が及ぶことは少ないということである。言い換えれば、日常的に観察できることを超えてイメージするのが難しいというのが、小売業に対する理解の限界ということになるだろう。そこでは、経営者や管理者の視点が欠けていたり、企業組織の行動への関心が薄かったりして、小売業における意思決定の専門性や幅広さが一般には理解されていないということになるだろう。

 したがって、小売経営を学ぶうえでのポイントの1つは、意思決定に関する課題の多様性を理解することにある。小売業では、店舗などにおける現場の活動から小売企業本部の戦略策定までの意思決定のタテの連携に加えて、商品の仕入・販売などの多様な職能におけるヨコの連携があり、それらを総合的に理解することが小売経営では不可欠となっている。それを網羅的に、しかも体系的に理解できるように説明することが、小売経営論の教科書に求められると考えている。

専門的知識の重要性

 小売業の社会的な役割が評価されにくいもう1つの理由は、専門的知識との結び付きが弱いということである。小売業における現場での経験や先天的なセンス・商才の重要性を否定するものではないが、それらだけに依存してしまうと、個々の経験や状況の特異性にとらわれて、小売業に共通する知見を有効に活用することができなくなる。小売業には企業規模や業種の多様性があり、個々の状況の違いを知ることも重要であるが、個々の特異性を強調しすぎると、小売業に共通する知見を有効に利用できないことになりやすい。それでは、小売業の人材育成も適切に行われないという問題を引き起こすだろう。

 他方で、小売研究の世界では、国内外でひじょうに数多くの研究が毎年出されており、相当な理論的蓄積がすでにあるが、こうした小売業に関する理論的な知識があることは、あまり理解されていない。むしろ、前述のように、顧客やアルバイトとしてのイメージの延長でしか捉えられていないならば、こうした専門的な知識が活用されないことになりやすい。

 具体的な例を挙げるならば、近年、小売業でも「おもてなし」という表現でサービスの重要性が強調されている。しかし、このことを日常的なイメージで判断してしまうと、「おもてなし」の意味や効果を問うこともなく、規範的にそれを提唱するだけになってしまう。

「おもてなし」の理論的な意味は、いくつかの視角から捉えられるが、1つは、店頭での販売員による「サービス品質」の向上であり、それが顧客の店舗へのロイヤルティを高めるという理解になる。そこでサービス品質を高めるための販売員の管理や動機付けの課題が浮かび上がってくる。ただし、手厚いサービスというのはコストがかかるため、利益率が上がるとは限らない。そこで重要なことは、サービス化によって店舗間の価格競争の影響を多少なりとも回避できるということである。もし顧客がどの店舗でも商品を買えるならば、最も低い価格で販売している店舗が選択されるようになり、小売店舗間で価格競争が始まってしまう。それに対し、顧客が自分の店舗を特別な存在として選択してくれれば、価格競争をある程度は回避できるようになる。すなわち、「おもてなし」に象徴される高い水準のサービスを行うことで差別化を実現し、利益率を高め、競争優位を構築するということになる。

 このように小売業における「おもてなし」を理論的に捉え直すことで、顧客満足のために「すべきこと」という規範的な理解を超えて、サービス品質や差別化による競争優位に理解が及ぶことになる。すなわち、小売企業の意思決定として、他店と横並びのサービスをただ充実させればよいということではなく、従業員をいかに管理し、価格競争を回避できるような「他より優れた」サービスになっているかどうかを考えないといけないことが分かるようになる。

コロナ禍における小売経営論の重要性

 新型コロナウィルス感染症の影響で小売企業の経営問題は一層複雑なものとなっている。本書では執筆期間の関係で新型コロナウィルスによる小売経営の影響には言及していないが、本書に書かれてある小売経営の基礎知識やEC・サービス化などの関連領域の考え方を適用することで、こうした新たな環境の脅威に適切に対応することができるものと思われる。ここでは具体的にどのようなことが導けるのか、その一例を考えてみよう。

 まず、コロナ禍においては、消費者が対面販売による感染リスクを回避するために、ECを利用したり、対面で提供されてきたサービスを対面しないデジタルサービスに代替したりするようになってきている。そこで小売企業でも店舗販売の落込みを避けるために、ECへのシフトやデジタル技術を使ったサービスへの転換を急ぐことになっている。

 ただし、ここで小売企業におけるターゲティングの問題が発生することになりやすい。小売業では、どのような店舗において、どのような商品を仕入れて販売するか、どのような顧客サービスを行うかなどを決めるうえで、ターゲットを絞り込むことが重要である。そして、ECやデジタルサービスに関しては、それらの技術を受容しやすい顧客層と受容しにくい顧客層が存在する。一般的なケースでは、小売企業が戦略的に選択したターゲットに適合する技術を採用することになるが、この状況では、その優先順位が逆転してしまうことがある。

 というのは、ECやデジタルサービスでは顧客の情報を収集しやすいので、とくに小売企業の本部では、顧客関係管理の行いやすい顧客に合わせた品揃えや販売促進活動を進めやすい。本部では、ECやデジタルサービスへのシフトがターゲティングの変更をもたらすとは考えずに、入手された顧客データに基づいて戦略を決定していると考えているのである。

 その一方で、店舗では、このようなデータが十分に収集されていなくても有望そうな顧客を見出し、そのような顧客への接客を重視しているため、従来のターゲティングを継続することを望む。したがって、小売企業の本部が推進するECやデジタルサービスは、本部と店舗とのターゲティングに関するコンフリクトを引き起こす可能性がある。とくに小売企業の本部が、デジタル技術が万能であり、すべての顧客満足に繋がるというデジタル技術への過信があると、ECやデジタルサービスが店舗の販売力を低下させることになりやすいと考えられる。それは、前述のように、本来、差別化の源泉であった販売員のサービスが、デジタル技術を導入した企業が代替できてしまう同質的なサービスで、差別的優位性を失う可能性があることにも繋がりかねない。

 したがって、ECやデジタルサービスへのシフトは、こうした組織や戦略の課題に留意しながら進めるべきであり、コロナ禍の影響を回避するための緊急避難的に導入するものではなく、また、最新技術で効率化するという表層的な理解のもとで行うものではないことが導かれる。

むすびにかえて

 海外には小売経営の標準的な教科書があるが、そのような小売業の標準的な教科書が日本にもあればよいと考えていたことから、本書の出版企画が始まっている。この企画の始まった2015年末の当初から、定番の教科書として理論に基礎付いた寿命の長い教科書を作るという目標を共著者の髙橋氏と共有して、2020年6月の出版に至っている。

 本書の「はしがき」でも「小売経営の専門知識を持った多くの人材が小売のイノベーションを引き起こし、その知見が小売経営の専門知識をより豊かなものにするという好循環を形成することが重要」と述べている。今後は、こうした小売経営の標準的な教科書を利用して専門知識を持った人材の育成が進み、そうした多くの人材が革新や改善に基づく新たな知見をもたらし、その知見が小売経営の専門知識をより豊かなものにするという好循環を形成することができれば、冒頭に述べた小売業の社会的地位が一層高められると期待される。本書がそうした好循環の一助になることを心から願っている。

有斐閣 書斎の窓
2020年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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