【解説:岩井志麻子】本当に怖いのは怪異か人の業か?鳥肌必至。幻の短篇集が遂に文庫化『るんびにの子供』
レビュー
【解説:岩井志麻子】本当に怖いのは怪異か人の業か?鳥肌必至。幻の短篇集が遂に文庫化『るんびにの子供』
[レビュアー] 岩井志麻子(作家)
文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:岩井志麻子 / 小説家)
黙り者の屁は臭い。
古より伝わる諺であるが、すべての人が心に留めておかねばならぬ箴言だ。
真に恐ろしい敵や油断ならぬ競争相手は、わかりやすい悪者や乱暴者、堂々と敵であることを表明し、負けないぞと闘志をむき出しにしてくる者達ではない。音の大きな屁をひる奴は、ひったのは私ですといえるのだ。そして、そういう屁はさほど臭くはない。
虫も殺さぬ、といった風情の人、欲も悪意もありませんと控えめに振る舞う人達は、屁をひったのは自分ではないと知らん顔をし、平然と他人のせいにしたりできるのだ。
幼い頃より怖い話がたまらなく好きで、長じては自分でも書くようになり、ついには職業にまでしてしまった私は、その諺は書くにしても読むにしても、追い求める怖い物語のテーマと一致している。
今はなき『幽』怪談文学賞の選考委員となり、第一回の選考に当たったとき、好みの怪談があるだろうか、自分なんかに選べるのかと様々な不安と期待に揺れたが、「るんびにの子供」は不安を一発ですべてぶっ飛ばしてくださった。
長らく文庫化が待たれた後、ついに来た、となったとき、『幽』怪談文学賞はなくなってはいたものの、また解説という形で関わらせていただけるのは、選考委員冥利につき、読者としてもたまらない喜びである。
ともあれ改めてこの本を読み返し、諺のまんまじゃあ、と再び慄いた。一見、大人しく優しく真面目な人達の、なんともいえない屁の臭さ。
まだ物語が始まったばかりの序盤、大人しい者達がただ登場してきただけで、屁の臭さを予感し暗い期待すら抱かされる。
いつの間にかとびきり臭い屁をひられ、まるで私がひったかのように思われている、疑われている、いや、私がひったことにされるんかい、と恐れ慄き、恐怖のどん底に叩き落とされるのは、もはや快感ですらある中盤。
ひった本人が平然と、私のせいにして立ち去る後ろ姿はもう、天晴れですらある結末。
「るんびにの子供」なんか、物の怪である存在よりも、良妻賢母のまさに大人しい主人公のほうが、よっぽど怖いじゃないか。物の怪もまた、醜く恐ろしい怪物ではなく可愛いといってもいい姿をしていて、凶暴な脅し方はしてこない。
私がこの物の怪と主人公に追い込まれるくらいなら、チェーンソーを振り回して襲ってくる異様な仮面の怪力の大男とか、完全にイッちゃってるのが誰にでもわかる髪を振り乱した女とか、そっちに代わって来てほしいと切に願う。
「柘榴の家」の語り手の男はなかなかのワルで、中盤に差しかかるまでは、派手な屁をひる男がわかりやすい乱暴を働くのかな、とも予想したが。
陰鬱ではあるが、地味で平凡に見える家屋から小柄な婆ちゃんが現れた辺りで、警官に向かって「屁をひったのは、この男ではありませんよ」と叫びそうになった。
まったくもって大人しい奴らときたら、脅しや暴力で責めたててくるのではなく、優しさや笑顔で絡め取りにくるのだ。気がつけば、音のない屁の毒素は全身に回っている。
それにしても柘榴っていうのも、地味な外皮に派手な果実、ある種の人間そのものだ。
「手袋」には、二組の姉妹が登場する。語り手である姉と、その妹。そして手袋にまつわる姉妹。どちらが大人しい側かなと考え、かなり迷ってしまった。
前者の場合、派手に生きていい美人の優等生なのは姉なのに、常に大人しく遠慮がちだ。
姉に比べればすべてが劣るのに、悪知恵と変な世渡りの上手さで派手な振る舞いに及ぶのが妹なのだ。私の中で、どちらが臭い屁をひったかくるくると立場が入れ替わり、実は今もってこっちだ、と指すことができないでいる。
後者の姉妹もまた、わからない。その手袋をはめてみたら、わかるだろうか。
「キリコ」で語られているキリコの禍々しい生い立ちや、占い師というより魔女といった方がいいような行為もじわじわと、読み手の目蓋の裏に広がる暗い色を増していく。
キリコもまた、暴れたりわめいたり脅したりは一切ない。そういうことをしてくる相手に対しても、黙ってうつむいてやり過ごす女だ。そういう女が、見た目通りのはずがなく、とんでもない屁をひられているのを、嗅がされたときはもう命がない、というお話。
語り手の義理の姉妹は、キリコが同類だとわかっているから敬して遠ざけてきたのだろう。あの手の人達への対処はそれが一番なのだが、残り香からも逃れられないのだ。
「とびだす絵本」は、もしかしたらこれはある種、ハッピーエンドなのかもなぁと、しみじみ哀しい余韻に浸ってしまった。
私も幼い頃、好きな絵本の中に入り込んでみたいと夢想したことはあるが、この世界で生きたいとは願わなかった。結末がすでにあり、幸も不幸も停滞しているのはわかったから。でも、この話の主人公は、未来を創造するより過去を生き直したい人だった。
こういう、音もしないし臭いもない屁をひる人は、無臭の世界で完結するしかない。
「獺祭」で思うのだが、カワウソってそんな可愛いものなのだろうか。妙なブームになっているが、あいつらをついアザラシやトドと比べてみるから、ただ小さいというだけで可愛いと錯覚してしまうのではないか。
というふうな考えを、この物語で改めて強くした。その実体も生態もよくは知らず、なんとなく可愛い愛玩動物みたいに思っていると、鋭い牙や爪や屁があることを忘れてしまうのだな。カワウソ・カフェも行ったことあるけど、あんまり心は無い感じだった。
ただ可愛がるだけなら、心の無さが無垢さや純粋さとなって良いのかもしれないが。
「狼魄」を読めば、呪いとはやっぱり派手な舞台装置や外連味たっぷりの演出があるものよりも、虐げられた大人しい人達や、ずっと耐えてきた物静かな人達が、何食わぬ顔で密やかにやる方が怖いし効くんだなと、教えてもらえる。
呪いに使われる物品もちゃんと、みずから相応しい持ち主を選んでいってるし。
この狼魄はまた後日、違う人の手に委ねられるだろう。大人しい屁の臭い人の手に。
──香しき怪奇小説に酔い痴れ、私もすっかり大人しい人になってしまった。
▼宇佐美まこと『るんびにの子供』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322002000933/