第57回文藝賞受賞記念対談 穂村弘×藤原無雨「命よりも大切な物語」

対談・鼎談

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水と礫

『水と礫』

著者
藤原無雨 [著]
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309029306
発売日
2020/11/13
価格
1,540円(税込)

書籍情報:openBD

第57回文藝賞受賞記念対談 穂村弘×藤原無雨「命よりも大切な物語」

[文] 河出書房新社

穂村弘さん(左)と藤原無雨さん(右)

 文藝賞史上最多応募数2360作の中から選ばれた、第57回文藝賞(選考委員:磯崎憲一郎、島本理生、穂村弘、村田沙耶香)受賞作、藤原無雨(ふじわら・むう)さんによる『水と礫(れき)』が、11月14日、単行本として刊行されます。

自ら立ち上がり、増殖し始める小説を目の当たりにする感動 ――磯崎憲一郎

精密に作り込んだブレやざっくり感が接続させる現代日本と神話的世界 ――穂村弘

小説の外までも、世界がどんどん広がってゆく ――村田沙耶香

現代の東京と、砂漠に隣接する架空の町を舞台にした、壮大なスケールの一大叙事詩である本作。時評でも「この10年ほどの純文学新人賞の中でも屈指(栗原裕一郎氏、週刊新潮)」「長旅を振り返るような感慨をもたらす読後感(小林久美子氏、文學界新人小説月評)」「砂漠のように乾いた文体と相まって、行きつ戻りつする構成が時空の広さを感じる読書体験(石原千秋氏、産経新聞)」と絶賛された破格の才能にご注目ください。

受賞を記念し、選考委員のひとりである穂村弘さんと対談をおこないました。

のたれ死んでもいい

穂村 あらためて、御受賞おめでとうございます。

藤原 ありがとうございます。

穂村 このたびの受賞作「水と礫」でもっとも特徴的なのは、章立てが「1」「2」「3」とつづいたと思ったら、また「1」「2」「3」と、何度もループしてゆく語りのスタイルをとっていることですね。なぜこういうスタイルになったのでしょうか。

藤原 まずは、最初の「1」「2」「3」だけの短篇を書いたんです。湿度から逃れたいという気持ちで、衝動的に。

穂村 じゃあ、当初はループさせずに終わっていたんですね?

藤原 そうなんです。その短篇を材料として、そこで描いた風景を圧縮していくように繰り返したらどうなるだろうかと、なかば実験のつもりで書いていきました。

穂村 まず書き出しが「1」から始まって、「2」「3」の次に、また「1」に戻った時に「あれ?」と思う。それで少しページをめくるとまた「2」に続いて、なるほどこれはそういう小説なんだ、と思いました。そして、二度三度と、要約すればだいたい同じような話がループしながらも、時間も空間も次第に広がってゆく。核となる繰り返しのエピソードも、実際に読むとそれぞれ違うんですよね。

藤原 そうですね。さすがにまったく反復させてしまうと、どうしても息苦しくなってしまうので。

穂村 小説の核となるのは、主人公のクザーノが東京でのドブ浚いの仕事で事故を起こして故郷に戻り、ある日彼の弟分であった甲一を追い、故郷の町に隣接する砂漠を渡って未知の町へ行く、という物語です。これが何回も繰り返されながらも、語り直すごとに、その範囲がだんだん拡大されてゆく。クザーノの息子や孫、父や祖父の物語へと広がっていきます。このスタイルは、神話や伝承に特有の語り口を連想させます。これについては、選考委員みんなが面白いと言っていました。

藤原 それは嬉しいです。

穂村 読んでいて楽しかったし、ちょっと気持ちがラクになる気がしました。僕は、小説の選考は今回が初めてだったから、やはり最初は緊張していたんです。始めからペンを持って構えながら読んだりしていて。すると、普段の読書とはちがって、小説を楽しむという気持ちは薄くなってしまうんです。でも、この作品は、物語にぐるぐると回されてゆくうちに、いつものように楽しんで読んでいました。それは、このスタイルのおかげだと思います。

藤原 なるほど。ゴジラの音楽を作っていらっしゃった伊福部昭さんが、日本人の音楽の特徴は反復にある、というようなことをおっしゃっていたと思います。反復に心地良さを感じるのは、私たちに根差している歴史的な何かによるものかもしれません。

穂村 われわれの生きている現実は、人の命というものがものすごく大切で、自意識や自我が肥大化した世界ですよね。多くの小説は、それをさらに拡大させた世界を描いている。一方で藤原さんの作品は、このスタイルをとることで、命よりも物語に重きを置き、自意識や自我が問題にならない世界像を提示していると思います。だから、登場人物がひどい目に遭ったり、仮にのたれ死んだりしても、ただ「運命とはそういうものなんだ」と思える。稀な作品ですよね。

藤原 先ほど穂村さんは神話を連想されたとおっしゃいましたが、たしかに、神話のなかでは誰かが死んだとしても悲しくはならないですね。

穂村 死のリアリティがちょっと違いますよね。「それはそれで」というふうに感じられる。そうしたことは、どのくらい意識的に書かれたんでしょうか。

藤原 ほんの少しですが意識はしていたと思います。私はクリスチャンホームに生まれて、聖書と絵本が常に身近にありました。とくに聖書は自分の根底にあるんです。聖書の語り口でも、死は事実として淡々と描かれます。絵本も、多くは「私」という一人称で描かれることはありません。そうした経験は、この小説の語りに影響していると思います。

穂村 なるほど。選考会でも、旧約聖書を連想させるという声がありました。登場人物の名前も、この世界観をかたち作っていますよね。クザーノ、コイーバ、ロメオ、ラモン、ホヨーといった一族の名前。一方で、甲一、由実、宗之、石川さんといった現代の日本人の名前がふつうに混在している。これはどうしてですか。

藤原 日本人の名前だけで書くと、収拾がつかなくなってしまう気がしたんです。

穂村 一族の名前は、葉巻からきているんですよね。

藤原 その通りです。そのことがどういう効果を生んでいるかは、自分ではちょっと計りかねているんですが。

穂村 どうして葉巻なんですか。

藤原 これを書いている時に葉巻に凝っていたので(笑)。また、ラテンっぽい響きが好きだということもありました。フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』やガルシア=マルケスの『百年の孤独』といった作品が好きなんです。

穂村 他にはどんな小説を読んできたんですか。

藤原 いろんなものを脈絡なく読んできました。たとえば太宰治、梶井基次郎、保坂和志さん、カフカ、ブッツァーティ等々。それから「水と礫」を書くきっかけとなった小説があります。イブラヒーム・アル・クーニーの『ティブル』という、サハラの遊牧民であるトゥアレグ族の作家が書いた作品です。それからもうひとつ、ヴィクトル・ペレーヴィンの『チャパーエフと空虚』が好きで、小説はどこまでも自由に書いていいんだと思った本です。

プリキュアのいる神話的世界

穂村弘さん

穂村 現代日本と神話的世界が混在しているのは、名前だけじゃありませんね。クザーノは新幹線で東京へ行ったりしているのに、故郷の町には、その向こう側に何があるのかすらわからない砂漠が広がっている。

藤原 地図の描けない小説だと思います。

穂村 そこが面白いという意見と、「カサンドル」といったらくだのネーミングなどはあまり効いてないんじゃないかという意見に、選考会でも分かれました。選考委員のひとりである磯崎憲一郎さんが、家系図を書きながら読んだとおっしゃっていましたが、つまり、地図は書けないけど系図は書けるんですよね。

藤原 受賞が決まった後に、磯崎さんがその系図を見せてくださいました。かなり詳細に、私自身も把握していないことまで書いてあって、感激しました。

穂村 ええ。この時間軸の厳密さが面白かった。一方で、空間的には謎ですね。クザーノは東京から戻ってきた、とだけある。東京のテレビではプリキュアを見たりしている。やがて故郷の町から、どこだかわからない砂漠を越えて聖書的な世界観の未知の町へ辿り着く。でも、そこにもスポーツドリンクやデカフェのピーチティー、ナースコールなどが出てくる。

藤原 これはちょっと冒険かなと思いました。日本を書かなくてはという意識と、そこから逃げたいという意識の間で揺れていて、それが反映されたんだと思います。

穂村 ただ、スマホは出てきませんね。

藤原 はい。携帯電話も出てきません。

穂村 携帯を出すと、小説が成立しなくなってしまう?

藤原 そうなんです。この小説で、砂漠のこちら側と向こう側をつなぐものは、同じ銘柄の葉巻が売られているということだけです。もしもそれ以外のものでつなげてしまったら、何もかも意味がなくなってしまうと思っていました。

穂村 ミステリなんかでは、スマホを出すかどうかで作家たちはみんな苦心しているといいますよね。固定電話の時代なら電話線を切ってしまえば密室はつくれたけれども、スマホだとそうはいかない。スマホと、それからDNA鑑定の技術が進んだことで、ミステリは書くのが難しくなった。そこで、そもそもの時代設定を戦後くらいにする、という方法がよく使われるようになりました。でも藤原さんは、この作品をあえて現代日本の設定にしている。プリキュアや仮面ライダーが出てくるわけですからね。これは、さっきおっしゃっていた「日本を書かなくては」という思いと関わっている?

藤原 そうですね。日本的な湿度が嫌いだけど、書かなければいけない、というせめぎ合う気持ちがありました。

穂村 現代日本と神話的世界との、この接続の仕方は面白いですね。もうひとつ僕が気にかかったのは、物語がループするたびに「1」の出だしに必ず登場する語り手の存在です。小説の冒頭で「それらはクザーノとは直接関係のないことだけれど、ともかく彼はクザーノだ」という一文があって、この時点では、なんだか奇妙な日本語で、何を言っているのかよくわからないから、何かの伏線のようにも感じられる。それが、次のループの冒頭で「クザーノには関係ないことだけれど、私には大事だ。けれどもクザーノのためだ。書かなければならない」といって語り手の「私」が登場する。語り手が自分のことを「私」というのは、この一回だけですが、この「私」は、書き手としての「私」のことですか。

藤原 はい。先ほど、実験のつもりで書いたと言いましたが、これは、その実験を行う側に立つ存在としての「私」です。

穂村 じゃあつまり、この語り手は意識がどこか不確かなところがありますが、複数人いるというわけではなく、ひとりの人なんですね?

藤原 その通りです。

穂村 なるほど。語り手はその次に、クザーノの父ラモンの話をする際に「時代を遡るほど、神経を研ぎ澄まさなければならない。よく目を見開いて、正確を期さなければならない」と言いますね。つまり、物語がループしてゆくにしたがって、この語り手が、クザーノのことをできるだけ正確に記述しようと努力しているんだ、ということがわかってくる。それは逆説的に、ここで語られている内容は、語り手自身にもよくわかっていない、わかることの不可能な世界、語り手がコントロールしきれない世界なんだ、ということなんですね。

藤原 それは意識して書いていました。

穂村 すると、読んでいてだんだん楽しくなってくるんです。たとえ人が死んだとしても、根本的な自由は消えないという愉快さのようなものがある。また、現代の尺度からすると世界観におかしなところがあっても、どこか許せてしまえます。

日本の湿度に対する嫌悪感

藤原無雨さん

穂村 故郷へ戻ってきたクザーノは、「東京から運んできた悲しい水分」を、身体の内側に抱えていると感じています。故郷の町を出て砂漠を旅しながら「水分を全部蒸発させるためだけにここに来た」と言いますが、砂漠を渡り切った先の町に到着してからも、身体の内側に「水分」は残りつづける。これは最後まで、クザーノに息子のコイーバが生まれ、そして孫のロメオが生まれたのちにも、彼はこの「水分」の存在を感じています。とても印象的です。

藤原 はい。私の意識としては、日本の湿度に対する嫌悪感が、この小説を貫いているんです。

穂村 それは、日本の私小説的なウェットな風土が苦手ということですか。

藤原 それもありますが、私は単純に天気が悪くなると体調にも影響します。

穂村 藤原無雨はペンネームですよね。雨が嫌いなんですか。

藤原 雨になって降ってしまえばいいんです。曇りが辛くて、空が水を溜め込んでいる状態が、頭や肩に雲がのしかかっている気がして、体調が悪くなってしまうんです。でもそうした嫌悪感だけじゃなく、私は何かを思考する時、小説を書きながら思考すると普段よりもずっと濃密なんですよね。だから、キーボードを打つに任せて話ができてゆけば、何かしら学ぶことがあるという確信がありました。小説の最後の方で、クザーノが孫のロメオにお説教のようなことを言うんですが、あれを書いた時には「ようやくここまで辿り着いた」という感覚がありました。あのあたりから、人は死なない、ということに小説が集約していったんです。

穂村 そうそう、最後にクザーノが、この小説の世界観を語るようなことを言うんですよね。ここは賛否が分かれるかもしれません。僕は、さっき話したように、この語り手はクザーノのことをよく知らないから、こんなふうにしてクザーノが語るのも、語り手のコントロール不能性を示しているのだと思いました。

藤原 書きながら、まさにそう考えていたんです。ここでクザーノに重要なことを言わせてやるぞ、という意識はまるでなくて、ここはこう書かなきゃいけないし、作者の意図とは関係なく辿り着いた言葉だという感覚がありました。

穂村 選考会では、出会った町の人が自分から状況をいろいろと説明してくれるのがゲーム的だという指摘もありました。

藤原 なるほど。たしかに、移動するたびに何者かが出てきて説明していますね。

穂村 ループする場合、何回転のどこで着地するか、といったことがあると思うんですが、この作品ではどうやって終わりを設定していたんでしょう。

藤原 クザーノの故郷の町の砂漠は過酷な場所ですが、まだ希望が残っています。でもそのまたさらに北の砂漠は礫砂漠です。砂ですらなく、手のひら大の礫が大地一面にどこまでも平坦に広がっている、絶望的な場所です。そこまで行ってしまったら、さすがに終わるだろうと考えていました。

穂村 「水と礫」の「礫」ですね。タイトルには迷わなかった?

穂村 一切迷いませんでした。身体の内側に溜まった水が、最終地点である礫砂漠に出会い、そこでようやく救われます。

穂村 砂ではなく、礫なんですね。

藤原 礫砂漠は過酷で、イメージとしても膨らむんです。

文学とライトノベルの二足のわらじ

穂村弘さん、藤原無雨さん

穂村 作品を書いていて難しく感じたところはありましたか。

藤原 毎日六千字ほどをコンスタントに書いて、ほんとうに筆にのせるまま一ヶ月かからずに書き上げたので、あまり苦しい思いはしませんでした。逆に、読んでいて苦労したり、難しかったりしたところはありましたか?

穂村 難しさはないのですが、このループのスタイルを理解するためにはある程度ページを読み進めないといけないですよね。ああ、こういう小説なんだ、と納得して楽しむまでに時間が要る。一度めの反復で、まず「ああ、そうなんだ」と思って、次に、クザーノの弟分である甲一が、本来いないはずの場所で出てきた時に、もう一度「なるほど」と思う。このふたつが、作品を理解するための大きな要素ですね。通常の小説よりも、精密なハンドリングが必要だろうなと思いました。だからこそ、語り手の存在が際立ってくる。

藤原 そうですね。語り手とクザーノの距離についても意識しました。

穂村 クザーノも、コイーバも、ロメオも、みんな一応ニックネームという設定なんですよね。

藤原 はい。なので、砂漠の向こう側の町では一度も「クザーノ」とは呼ばれていないんです。

穂村 藤原さんは、これまでに何作くらい小説を書いてきたんですか。

藤原 ライトノベルを含めると十作です。「水と礫」が十作めになります。

穂村 マライヤ・ムーという別名義で、ライトノベルの共著を一冊出版されていますよね。読みました。面白かったです。

藤原 読んでくださっていたとは……驚きました。ありがとうございます。

穂村 これは、共著者の今井三太郎さんとはどういうふうに分業しているんですか。

藤原 今井君がプロットを考えて、私が文章を書きます。それを読んだ今井君から意見をもらって、書き直して、完成させていきます。

穂村 『裏切られた盗賊、怪盗魔王になって世界を掌握する』だから、タイトルからして異世界ものですよね。マライヤ・ムーというペンネームには何か由来があるんですか。

藤原 『ジョジョの奇妙な冒険』のマライヤからとりました。

穂村 どんなキャラクターでしたっけ?

藤原 第三部のエジプトの場面で、マライヤという敵が出てくるんです。からっと乾いた荒野で、マライヤがしゃがみこんでタバコを吸っているシーンが好きで、そのキャラクターからきています。

穂村 藤原無雨もマライヤ・ムーも、どちらの活動もやってゆくんですよね。ご自身のなかでの区別みたいなものはあるんでしょうか。

藤原 文学が藤原無雨で、ライトノベルがマライヤ・ムーです。

穂村 どう違うんですか。

藤原 「文学とはこういうものだ」という定義は作家によって違うと思いますが、私にとって文学というのは、世界の見方を変えてしまうものだと思っています。それを読んだ人々が世界の見方を変えて、物事を新しい方法で考えるようになったら社会も変わると考えているので、結局のところ、私は文学で社会を変えたいのだと思います。ライトノベルの方は、日々の生活で欠落してしまった感情を埋めてあげるもの、という位置付けです。だから、ラノベは文学よりもずっと親切と言えます。たとえば冒険小説なら、それは日々の生活で強く抑えつけられた冒険心を満たすものですし、ラノベでありえないような恋愛の物語が多く描かれるのも、やはり欲望が抑えつけられているからだと思います。私にとっての文学とラノベは、明確に別物だと思っています。

穂村 なるほど。結果的にどの作品がどう社会を変えるかというのは、予測できないとも思いますけれども。

藤原 それはその通りですね。ライトノベル作品を読んで生き方を変える人もいれば、文学作品を、純粋な楽しみとして読む人もいます。なので、この分け方は、あくまで私のなかでの違いであって、一概にいえるようなことではないと思います。

穂村 栗本薫と中島梓や、長嶋有とブルボン小林といった、ふたつの名前を持つ作家はこれまでにもいましたよね。彼らも名前によって書く内容を分けています。

藤原 いまの時代で面白いのは、名前を分けているけど同一人物がやっているんだということを、SNSなどを通じて自分から発信できる、ということだと思うんです。そこが、これまでふたつの名義でやってきた人と、これからやっていく人の置かれた状況の違いじゃないかなと。

穂村 面白いですね。「水と礫」からだけではわからないものがあるなと思います。

藤原 たしかにそうかもしれません。以前にツイッターで哲学にものすごく詳しい人がいて、すごいなと思っていたら高校生だったので驚いたことがあります。いまその人はアカウントに鍵をかけていますが。

穂村 ツイッターそのもののバイアスみたいなこともありそうですね。たくさんの作り手やユーザーが参加することで、一つのシステムや形式の枠というか限界が可視化されることがありますよね。

藤原 限界というと、どういうことでしょうか?

穂村 たとえば、僕がふだん関わっている短歌は、誰が書いてもある程度、作中の主体が似てくるんです。内省的で、非行動的で、リベラルというふうに。実際の書き手のほうがむしろばらばらなのに、それが反映されにくい。たとえば、平均よりもお金持ちの「私」を書くことさえ難しい。現実にお金持ちの歌人だったとしても、作品にはまず出てこない。それはこのジャンルのある種の限界だなと感じるんです。結果としてみんなが同じようなことを書いてしまう。

藤原 小説もそうでしょうか?

穂村 小説の場合はもっと作り込めると思います。より自由度が高いけど、それでもやっぱり、大きな枠みたいなものはあるような気がします。本当に枠を破ったものに触れたら、意外と拒否反応が出てしまうのかもしれませんが。

藤原 その枠をなんとかして撃ち破ろうとしているのが、現代文学なんだと思っています。だから、私もどんどん実験していかなきゃいけません。

(二〇二〇・九・四)

〈初出 「文藝2020年冬季号」〉

河出書房新社 文藝
2020年冬季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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