罪と罰と生を問う力作 NHKドラマ「雲霧仁左衛門」を手掛けた脚本家が挑んだ初の時代小説とは?

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羅城門に啼く

『羅城門に啼く』

著者
松下 隆一 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103537519
発売日
2020/11/26
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ほら穴の聖母

[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)

縄田一男・評「ほら穴の聖母」

NHKドラマ「雲霧仁左衛門」などを手掛ける脚本家・松下隆一が、罪と罰と生を問う重厚な時代小説に挑んだ『羅城門に啼く』が刊行。松下初の時代小説であり、第1回京都文学賞(一般部門)を受賞した本作の読みどころを文芸評論家の縄田一男さんが解説する。

 ***

 本書『羅城門に啼く』は、小説家・松下隆一の第一時代長篇であり、二〇一九年四月に創設された「京都文学賞」一般部門の第一回受賞作品でもある。

 冒頭に小説家と断ったのは、作者はこれまでに脚本家として活躍しており、時代劇に限っても、「獄(ひとや)に咲く花」(原作・古川薫「吉田松陰の恋」)や、好評につき何シーズンも続いているNHKの「雲霧仁左衛門」(原作・池波正太郎)の脚本を手がけているからだ。

 本書は、その松下隆一の野心作であり、舞台は平安時代の京。羅城門周辺の洛中洛外で、聖と俗、罪と罰、生と死をめぐる重厚な人間ドラマを紡ぎ上げた力作である。

 主人公はオレ=イチという名の悪党で、クマとヤマという悪党仲間とつるんで、裕福な油商人の家に押し入り、その油商人夫婦を惨殺、娘の片耳を切り落として立ち去るも、捕えられてしまう。この三人のうち、クマは処刑され、ヤマは洛外へ追放となり、イチは辛くも通りがかりの上人に助けられる。両親の顔を知らず、イチは幼少期に奴婢として売り飛ばされた過去を持つ。そして売られた先の「マムシ屋敷」で、イチは、母親に会いたいというジンに近親憎悪的な思いを抱き、逃亡の手助をするようなふりをして、つかまるように陥れる。が、イチが手引きをしたと密告した者がいて、彼は片目に焼きごてを押しつけられてしまう。

 私はいま、イチが近親憎悪的な思いを抱き、と書いたが、実は彼のいちばん古い記憶は、「乳の甘い匂い――それがオレの頭の底に泥みたいに眠る、一番古い思い出」だったのである。この母と子、あるいは子と母というテーマは、本書を貫く太い柱の一本であり、それは、作品の後半に登場する脇役の産婆にまで及んでいる。

 それは、人を殺し女を犯し、「世の中のものをみんなめちゃくちゃに」したいとうそぶく悪党に残された、一片の人間性であったのか――。

 そのイチを救い出したのは、「その風体は坊主ではないのに、確かに坊主にしか見えない」、これまでに、極悪非道なふるまいを重ねてきたイチが思わず「釘づけにされてしまうような気を放っている」男。そしてひたすら「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」を唱えている。この人物こそ空也上人であり、本書の最も太い柱ともいうべきテーマは、空也上人と出会ったことによるイチの変化であろう。

 上人は、乞食のおこぼれにありつきたいのなら、百のむくろを墓場までかついでこいという。はじめは己の欲のため、病の老爺が死ぬのをじっと待っていたイチであったが、次第に上人のことばが身にしみ、女を抱くというはじめの目的はどこかに吹き飛んでしまい、ひたすらむくろを運び続ける。そんなイチに上人はいう――「欲しがるのやない、与えるのやぞ。極悪非道の人でなしやったお前が救われる道はそれしかない」。「与えることは己が空っぽになってゆくということや。誰かに何かを求めて、得てばかりいると、愚かしい欲も積もってゆく。ええか。捨てるに捨てられんようになるから苦しい、それなら、はなから持たぬことや。何事にもとらわれるな」と。

 そして上人は「なむあみだぶつ」をとなえることによって、悪人も往生出来るという。が、その上人ですら、「己の身と心さえも捨てたい」と苦悩の淵に佇立していることに慄然とせざるを得ない。

 そして、イチは、身籠った遊女を救けるが、上人は、いったん救けたなら成し遂げてみいという。森のほら穴で遊女キクと暮らすようになるが、キクの片耳がないのを知り、イチは、それが誰だか分かり、己の業の深さを知る。そしてあろうことか、イチは、「遠い昔の産まれたばかりの自分を思い起す」キクの発する「忘れかけていた匂い」を通してキクに恋慕の情を抱いてしまう。

 が、二人の前に、突然、ヤマが現われ、キクはイチの正体を知ってしまう。そしてヤマが死の間際でささやくのは、意外や、「……母さん」の一言。さらに物語のラスト、「父さま……母さま……」といい乍ら、上人のいう、己を捨てて、あるものを与えたキクこそは本書のキーパーソンであり、正にほら穴の聖母というべきであろう。

 一人の悪党の成長を通して、人間を深く見つめた本書は、松下隆一を広く世に知らしめる一巻として、長く記憶されることになるに違いない。

新潮社 波
2020年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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