ソナーで監視された“音の密室”。殺したのは人間か、それとも? 驚愕の海洋ミステリ! 貴志祐介『コロッサスの鉤爪』

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コロッサスの鉤爪

『コロッサスの鉤爪』

著者
貴志 祐介 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041108895
発売日
2020/11/21
価格
726円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ソナーで監視された“音の密室”。殺したのは人間か、それとも? 驚愕の海洋ミステリ! 貴志祐介『コロッサスの鉤爪』

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:杉江 松恋 / 書評家)

「なに、あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌(つち)の力で掘り出すまでだ(後略)」
(夏目漱石『夢十夜』「第六夜」)

 これは運慶が仏像を彫るさまについての表現なのだが、貴志祐介の〈防犯探偵・榎本〉シリーズで謎が解かれていく過程を読むと、いつもこのくだりを思い出す。信じられないものが信じられない場所から掘り出されてくるのだ。

 アーサー・コナン・ドイルが創造した名探偵、シャーロック・ホームズの名言、「ほかのすべての条件があてはまらない場合は、残った可能性がどれほどありそうにないものでも、やはり真実にほかならない」(『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』「ブルース=パーティントン設計書」。深町眞理子訳)という演繹思考の基本に忠実なのだが、そこには常に新しい発見が加味されており、新鮮な驚きを与えてくれる。謎解きの真髄と言うべき喜びがある。

 本書収録作に触れる前に、シリーズの概要について簡単にまとめておこう。シリーズの主人公・榎本径は、防犯コンサルタントが表向きの職業だが、裏では後ろ暗い節のある人物である。犯罪者の心情や習慣に精通しているので、彼らの視点から事件を見ることができる。不可能犯罪に見える事件を引き受けてしまった弁護士・青砥純子が、榎本の特殊技能を見込んで調査協力を要請してくる、作中では必ず密室トリックが扱われる、という物語の基本形は、第一作の長篇『硝子のハンマー』(二〇〇四年。現・角川文庫。以下同)で確立された。以降のシリーズ作品はすべて短篇集で、二〇〇八年に『狐火の家』、二〇一一年に『鍵のかかった部屋』、二〇一七年に『ミステリークロック』がそれぞれ刊行された。

 各短篇集にはそれぞれの趣向が凝らされているので、未読の方はどの一冊から始めても問題なく楽しめるだろう。たとえば『狐火の家』は、密室トリックが使われた事件であることが判明するまでの見せ方が毎回異なるので、プロットの違いを楽しめる。『鍵のかかった部屋』はさまざまな密室を取りそろえた作品集であり、舞台設定のおもしろさで読ませる。シリーズを順番に読んでいった場合の楽しみは、キャラクターが変化していく過程を味わえることだろう。初登場時の青砥純子はごく当たり前の、有能な弁護士という雰囲気だったのが、コメディリリーフ的な役割をだんだん担うようになってきた。本シリーズは二〇一二年に大野智・戸田恵梨香主演のドラマ「鍵のかかった部屋」として映像化されているが、キャラクターの魅力があったからこそ実現した企画なのではないかと個人的には思っている。

 第三短篇集の文庫化にあたり、収録作を分割して二冊で刊行されることが決定した。最長の「ミステリークロック」と倒叙形式で話が進んでいく「ゆるやかな自殺」の二篇、『鍵のかかった部屋』同様に密室の設定がおもしろい「鏡の国の殺人」と「コロッサスの鉤爪」の二篇という組み合わせである。本書は後者だが、もう一冊の『ミステリークロック』も併読してもらいたい。表題作は初めて読んだときに私は「これを独立した長篇にせず、短篇集に入れるとは、なんて気前のいい作家なんだ」と半ば呆れる思いがした。サービス精神に溢れた一篇だ。

 前置きが長くなった。『コロッサスの鉤爪』の話題である。

貴志祐介『コロッサスの鉤爪』
貴志祐介『コロッサスの鉤爪』

 二篇のうち先に発表されたのが「鏡の国の殺人」だ(初出:「小説野性時代」二〇一三年十二月号~二〇一四年三月号)。とある美術館に夜間侵入した榎本径が死体を発見してしまう、という衝撃的な場面から話は始まる。これまで、怪しい怪しいと言われながら決して裏の顔を露わにすることはなかった榎本なので、ついに馬脚を現す瞬間が訪れたかと思わせるが、そこは彼らしく、ぬけぬけと切り抜ける。美術館ではルイス・キャロル作品を再現した展示が行われており、その中の「ハンプティ・ダンプティの顔」というコーナーのために密室的状況が成立してしまうのである。

 ルイス・キャロルが作中でしばしば開陳する逆説的言辞やナンセンスな韻文、数々の印象的なキャラクターは過去に多くのミステリー作家を魅了してきた。キャロル・モチーフの作品だけで一ジャンルが形成されていると言っていいほどで、日本にも辻真先『アリスの国の殺人』(一九八一年。現・徳間文庫)など秀作が多数存在する。ハンプティ・ダンプティはイギリスの童謡〈マザー・グース〉の登場人物であり、その意味ではマザー・グース・ミステリーと言うこともできる。本篇を翻訳して英語圏で読んでもらいたいものだ。

 表題作となった「コロッサスの鉤爪」は、かつての『硝子のハンマー』を上回る壮大な規模の密室が描かれる作品だ(初出:「小説野性時代」二〇一五年十二月号、二〇一六年一月号、三月号~五月号)。海そのものが密室と見なされるのである。海上でゴムボートが転覆し、乗っていた男が死ぬ。事件当時その海域には『うなばら』という実験船が作業中だった。ただし船がいたのは三百メートルの深海で、犠牲者に近づくことは不可能である。潜水に伴う気圧差が障害になるためだ。また事件当時の模様は水中聴音機によって記録されていた。現場を見ることはできないが聴こえてはいるので、工作が施されればわからないわけがないという、いわば音の密室だ。

 さらに異様な状況が付け加わる。犠牲者の遺体には、何かの生き物がつけたような傷痕が遺されていた。疑われるのはダイオウホウズキイカ、英語名のコロッサル・スクイッドを縮めてコロッサスと呼ばれることもある深海生物だ。題名はここに由来しているのである。

 どう見ても怪物が犯人としか思えない事件、というミステリーのジャンルも存在する。嚆矢とされるのはシャーロック・ホームズ譚の長篇『バスカーヴィルの犬』(一九〇一年。創元推理文庫他)で、不可能犯罪ものとしてはS・S・ヴァン・ダイン『ドラゴン殺人事件』(一九三三年。創元推理文庫他)も有名である。その系譜に連なる新しい作品が出たということで、本篇の発表当時は大騒ぎになった。もしかすると世界初のダイオウホウズキイカ・ミステリーかもしれないし。実は本篇にはもう一種類の生物も登場する。そちらもトリックに使われた例は見当たらず、珍しい。生物ミステリー・ファン垂涎の一篇なのである。

 最初にも書いたが、榎本径のシリーズには新しい発見が満ちている。謎解き部分を読んだ者に、そういう世界があるのか、という驚きをもたらしてくれるのだ。貴志がこのシリーズで行っていることは、脈々と受け継がれてきた謎解き小説の物語形式を現代的な道具立てによって補強し、再生させる試みなのである。アイデア量の豊富さについては他の作家の追随を許さないほどで、当代一のトリックメーカーという称号を贈りたい。貴志の凄味は、一つの事件に対して必ず複数の仮説を準備することで、榎本によって真相が呈示されるまでにいくつものトリック候補が捨てられていく。贅沢に貴志はアイデアを蕩尽するのである。

 推理でおもしろいのは、榎本が真相に到達する過程が、青砥の仮説を否定するという形で行われることだ。本書収録の二篇ではその模様が実におかしい喜劇的場面として描かれる。いくら否定されても珍説・怪説を出すことをやめない青砥には、時に榎本を「……くそ。不死身か? メンタル、不死身なのか?」と嘆かせる芯の強さがある。最初はこんな人じゃなかったのにね。冒頭に紹介した『夢十夜』の一節は、後に「まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と続くのだが、榎本が石を見つける前の下準備を、どんぐりやら蛇の抜け殻やら、変てこなものを掘り出す青砥がしてくれているわけである。仲がいいのか悪いのかわからない、奇妙なチームワークが楽しめるのも本書の魅力だ。

 元版の『ミステリークロック』に収録された四篇の特徴を一口で言うと、足し算の魅力であったと思う。一つだけだと何を表しているかわからないピースがあるが、二つ以上を足し合わせることで本来の姿が見えてくる。「ミステリークロック」はまさにそういう作品で、足し算する項目の多さでは群を抜いている。本書収録の二篇でいえば、「鏡の国の殺人」は、それとそれを足すか、という意外性があるトリック、「コロッサスの鉤爪」は図に一本の補助線を引くことで解法が浮かび上がってくる作品だ。ダイオウホウズキイカ+ある生物=真相という話なのだと書いても信じてもらえないかもしれないが、本当だから仕方ない。

 現代屈指の完成度を持つ謎解き小説であり、個性的なキャラクターの探偵小説であり、ルイス・キャロルやダイオウホウズキイカといったモチーフの奇想小説でもある。ミステリーはこんなにおもしろいものなのだということをぜひ実感していただきたい。

▼貴志祐介『コロッサスの鉤爪』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322008000156/

KADOKAWA カドブン
2020年11月26日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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