抑圧された人を救うことさえある女性の人生にある“ワガママ”

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抑圧された人を救うことさえある女性の人生にある“ワガママ”

[レビュアー] 石井千湖(書評家)

 みんなが我慢を強いられているコロナ禍の世界において、最も嫌われるのはワガママな人かもしれない。『そして、海の泡になる』は、ある女性の人生をたどっていくうちに、ワガママという言葉のイメージが変わる物語だ。

 二〇二〇年の夏、語り手の「私」は、平成が終わる年に獄死した朝比奈ハルという人物について小説を書こうと思い立つ。ハルは大阪で料亭を経営する傍ら巨額の株式投資を行っていたが、バブル崩壊後、殺人犯となった上に、個人としては日本史上最高額となる四三〇〇億円の負債を抱え自己破産した。和歌山の寒村で生まれ育ったハルがどうやって財産を築き上げ、それを失ったのか。「私」は関係者の話を聞く。

「バブルの女帝」と呼ばれた尾上縫をモデルにした小説はほかにもあるが、実在人物のプロフィールと重なる部分はあっても全く印象が違う神話的な主人公に生まれ変わらせているところが本書は素晴らしい。ハルは人々が天皇の代わりに金の神話を信じるようになった戦後日本で大暴れする怒りの女神なのだ。敗戦でおかしくなった父の性暴力を受け入れていたハルは、ある日「うみうし様」と出会い、怒りに目覚める。「うみうし様」は、海の生物ウミウシそっくりの神様だ。ハルは「うみうし様」の不思議な力を借りて世界に復讐することを誓う。その方法とは〈ワガママにやりたいことをやって生きていく〉ことだった。

 ワガママを実現するために必要な金は、男の手に偏在している。そう気づいたハルは、男から金を奪う。かなり冷酷な手段も使っているのに憎めないのは、ハルが他人のワガママにも寛容だからだ。ワガママが抑圧された人を救うことさえある。

 著者は常にいまここにある厳しい現実と向き合っているので、結末は甘くない。しかし、話の続きをワガママに想像できる小説でしか味わえないカタルシスがある。

新潮社 週刊新潮
2020年12月10日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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