脳移植で新たな身体を得た女刑事の闘いと葛藤。壮大なサスペンス巨編が新装版で登場! 『天使の爪』

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天使の爪 上 新装版

『天使の爪 上 新装版』

著者
大沢 在昌 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041097847
発売日
2020/10/23
価格
1,100円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

脳移植で新たな身体を得た女刑事の闘いと葛藤。壮大なサスペンス巨編が新装版で登場! 『天使の爪』

[レビュアー] 中野信子(脳科学者)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:中野 信子 / 脳科学者)

 脳を人体から取り出し、別の体に移し替えることは可能か。

 脳移植については、検討段階には入っており、2018年にはイタリア人医師セルジオ・カナベーロが遺体を対象として頭部移植手術を行ったと宣言している。彼は、遺体ではなく、生きている脳でも移植はもうまもなく可能になると主張して話題になったが、技術的にはいまだ実現は難しいだろうという研究者間のコンセンサスがある。ノースウエスタン大学で教鞭をとる、リハビリが専門のリチャード・ハーヴェイ医師は、カナベーロ医師が開発した技術について、脳幹と脊髄をつなげても、人間が動き出すということはない、と明言している。もし仮にそのような手術を受けたなら、患者は四肢麻痺に陥り、そこから健常成人として体を動かすことができるようになるまでは、かなりの時間を要するか、不可能であるだろうというのがハーヴェイ医師ばかりではなく、現在の医学界の大方の見方だ。現代医学は、脳移植どころか脊髄損傷の修復すら覚束ない状態で足踏みをしているのだ。

 ただし、脳移植が理論的に実現不可能である、とは考えられていないようでもある。つまり、解決されるであろうことに異を唱える人ばかりかといえばそうではなく、脳移植の成功は時間の問題で、いつかそういう日が来るだろうということを否定的に見る人が全てではないということだ。近年では、脳実質ではなく、蓄積された情報や活動パターンを取り出して、シリコンの筐体──すなわち、コンピューターに移し替えようという試みについても報じられるようになった。

天使の爪 上 新装版
天使の爪 上 新装版

 本作は、サイエンスとしてはやや近未来的な世界の内容をスペキュラティブに表現している。女刑事・河野明日香が脳移植によって生まれ変わり、神崎アスカとして活躍していく物語である。男勝りで肉体的にも精神的にも強靭であった河野明日香が、美貌の肉体を得て、戦闘能力にはやや劣ってしまうものの、男性からの無条件の好意を自然に得られてしまう神崎アスカとして生きることの葛藤を丹念に追っている。古芳が美貌のアスカの体を抱けば、明日香を傷つけることになるかもしれないと躊躇するのも人間味のある感情のやり取りで、抑制された行動の中に見え隠れする二人の絆の深さに読者は心地よさを感じるのではないか。

 脳を取り替える、というのは、科学技術の発達した現代ならではの命題のように思われるが、脳という臓器に着目するのでなく、自分と違った肉体への渇望、という意味でなら少なくとも『とりかへばや物語』が成立した平安時代後期にはこうした願望が存在した。爾来、千年の長きにわたって繰り返し議論の俎上にのぼってきた。人間は、ないものねだりをする生き物で、自分ではない誰かの人生を生きてみたいという願いを抱える習い性があるようだ。

 肉体を取り替えるとまではいかなくても、気に入らない部分をなんとか理想の形に近づけようと、現実に対して抵抗したことのない人はごくまれなのではないか。カツラで薄毛を隠し、たるんだ肉体をすこしでも引き締めようとトレーニングをする。シミだらけの皮膚にメイクをし、血色の悪い唇に紅をさす。糸を入れて皮膚を伸ばし、整形をし、なんとか今の自分とは違った「自分」になろうと足掻く。多くの場合は、完全に納得できないながらも、今ある自分の体となんとか折り合いをつけて、人々はそれぞれの時を過ごしていく。

天使の爪 下 新装版
天使の爪 下 新装版

 本作で描かれる、脳移植によって実現される世界の抱えるテーマの中にはもう一つ重要な、肉体と精神の独立性を巡る議論がある。多くの人は、肉体は単なる器であって、頭脳がこれを支配していると考えているだろう。つまり、意識の座が脳に存在する以上、脳を保持している者がその人格を保持している者となる、という考え方だ。

 しかし、近年の研究はかならずしもそういう見方を支持しているとはいえない。

 肉体のありようが脳を支配し、認知を変容させていく、といった仮説を支持するデータも少なからず蓄積されてきている。有名なものでは、ハーバード・ビジネス・スクールの心理学者、エイミー・カディの研究が挙げられるだろう。強いポーズを取ったとき、弱いポーズを取らされたときの自己イメージの変化は対照的で、強いポーズのときには実際に人を攻撃的にさせるホルモンの分泌が盛んになり、弱いポーズのときにはストレスホルモンの値が上昇する。人に屈辱を与え、行動を制限しようと思うのなら、外見からまず傷つけ、貶めるというのが有効な方法であることが示唆される実験である。

 やや古い研究だが、1960年代のアメリカにおける調査で、収監されていた囚人に対して整形手術を施した群とそうしなかった群とを比較すると、再犯率に有意に差があったという報告がされている。整形手術をした方が、再犯率が低かったというのだ。要因が複数あり、単純な問題でないためここで変数を一つに絞り切ることはできないが、少なくとも容姿の変化によって認知の変容が起き、実際の行動に違いが生じていったということは間違いなくいえるだろう。

 ヒロインである河野明日香は、頑健で戦闘に向いた体躯を失い、男性から性的な視線を集める神崎はつみの肉体を得る。このことで、明日香/アスカの認知の中にはどんな変化が生まれていくか。この思考実験は非常に面白い。前述したが、作中では主として古芳との関係性の中でその繊細な移ろいについて記述されていくけれども、肉体の記憶が意識を持つ当人にどれほど影響を及ぼすかという問題は、多くの研究者もいまだに熱い問題として追っている興味深いテーマの一つである。

 肉体が徐々に影響を与え、意識の座と思われていた脳は、意外にも意識の入れ物の座であるだけという事実があらわになるという考え方は、魅力的だ。当人の人格は、容器としての体のありようによって大きく影響を受ける……。

 本作の中ではさらに高度な問題も示されている。レシピエント(ドナーというべきか、作中でも問われているが)の小脳を残したまま脳を移植したあと、妹の姿があり得ない形で再構築され、認知と行動とに混乱をもたらしていくというエピソードが描かれている。このキャラクターは攻撃能力の極めて高い登場人物であるから、その混乱の与える印象はすさまじい。脳移植というアクロバティックな手術をにわかに敢行すべきではないという抑制的な思考を、本書を手にした医学界の人は無意識に持つのではないか。それほど作家・大沢在昌の筆には説得力がある。

 我々の社会にはいまだにこの技術は存在しないが、それでも、きっかけが訪れるごとに人間は意識と肉体とのギャップに目を向けさせられる。そうした経験のない人はほとんどいないだろう。これは人間の業とも呼べるものだ。肉体の桎梏の中でもがく意識としての存在である私たちは、この先どんな未来を描くのか。ここからの解放はあるのか。壮大な思考実験としての本作を、改めてサイエンスの視点から丹念に読み返し、慄くような体験を、読者にも味わってほしいと思う。

大沢在昌『天使の爪 上 新装版』
大沢在昌『天使の爪 上 新装版』

▼大沢在昌『天使の爪 上 新装版』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322004000190/

KADOKAWA カドブン
2020年12月05日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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