『海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集』
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気づいたら“幻視”の世界に 現実と信じ込ませる作者の筆力
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
昨日見た夢の話と、行ってきたばかりの海外旅行の話ほど、聞いてつまらぬ話はない。どちらも本人にとっては生々しく非日常的な驚きに満ちたものなのだろうが、話だけ聞かされても全くその世界に入り込めないことがほとんどだからだ。
こちらの共感能力の低さのせいかもしれないが、同じ理由で、夢や幻想を扱った小説もあまり得意でない。しかし、笙野頼子の『二百回忌』を読んだ時の衝撃は忘れられない。迂闊にも途中まで純粋な私小説として読んでしまっており、気づいたら幻視の世界にいたのだが、いったいどこから現実と乖離したのかわからなかった。それはひとえに、幻視を現実と信じ込ませる筆力のゆえだ。
その作者の初期の幻視ものが文庫でまとまった。「海獣」「呼ぶ植物」のようにあらかじめ夢や妄想だと断ってくれているものもあるが、「背中の穴」のように、一読では現実と幻視の境目がわかりにくいものもある。
いや、そうした現実にみみっちくこだわる読み方はこの作品集にはふさわしくないかもしれない。主人公の幻視が現実以上に現実を語っているからだ。それが主人公の目に映る現実そのものなのであり、その意味で、これは正しく私小説集でもある。
ただ、もちろん他人の夢の世界に入り込むのはいつでも難しい。特に、小説にストーリーの展開だけを期待して読む者を拒絶する文体の濃厚さがここにはある。
少し怖気づいてしまった向きには、ぜひ巻末の書き下ろし「記憶カメラ」から読むことをお薦めする。持っていたデジタルカメラの調子がおかしくなったと思ったら、過去の映像が記憶とともに蘇るという話だ。
二十五歳でデビューしてからの作者の心身ともにおける苦闘が思い出され、それが他の作品のよき解説ともなっている。少なくとも本書において、幻視はお気楽な夢想などではなく、圧縮され濃密を極めた現実の姿なのだ。