『ストーリーテラーのいる洋菓子店 月と私と甘い寓話』
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あなたの心の疲れを癒す物語/野村美月『ストーリーテラーのいる洋菓子店 月と私と甘い寓話(スイーツ)』書評:大矢博子(書評家)
[レビュアー] 大矢博子(書評家)
疲れると甘いものが欲しくなる。
実は甘いものをとると血糖値が急激に上がり、かえって疲労が増すので本当はよくないらしいのだが、何かに行き詰まったりストレスが溜まったりしたとき、「今、私の脳が糖分を欲している……!」と感じた経験は誰しも持っているだろう。
でもそれなら、砂糖を少し舐めれば済む話だ。それなのに私たちは、見た目も華やかなケーキやチョコレート、香ばしいクッキーやしっとりした口溶けのクリームに惹かれる。なぜか。それは、疲れているのが心だからだ。脳の疲れはブドウ糖で癒せる。だが心の疲れを癒すには、それだけでは足りない。
そのケーキやチョコレートひとつひとつに、どのようにこの世に生み出されたかのドラマがある。食べる人のことを考えて職人がその都度、そこに込める思いがある。そして食べる側の私たちにも、「なぜ疲れたのか」という理由や事情がある。
ドラマ、思い、事情──それを別の言葉で物語と呼ぶ。
ブドウ糖が脳を癒すなら、心を癒すのは物語だ。ただ甘いものが欲しいのではない。そこに込められた思いを、手間を、情熱を──ひいては物語を感じるからこそ、気持ちがアガり、慰められるのである。
野村美月『月と私と甘い寓話(スイーツ)』は、まさに、スイーツの持つ物語を届けてくれる小説だ。
たとえば第一話では、生活に疲れた三十代の女性、七子が登場する。がんばっても正社員になれず、恋人とも最近会う機会がなく、夕飯を作るのも面倒な帰り道。ふと立ち寄った洋菓子店「月と私」で彼女は、執事のごとき燕尾服を着た長身で美形の男性に出迎えられて驚く。
彼は自らを、販売員でありストーリーテラーだと説明。商品の説明やそれにまつわる物語を語り、「甘いお菓子と一緒に、ストーリーをお持ち帰りいただ」くのだと言う。そして七子に、満月を象ったバターケーキにまつわる、ある疲れた女性の話を聞かせた……。
第二話は、突然「休暇」を宣言した主婦の物語だ。家事の全てを担っていたふみよは、久しぶりの解放感とともにたまたま「月と私」を訪れる。そこで燕尾服のストーリーテラーからある魔法の物語を聞いて……。
ここまでの二話は、言うなればケーキの表面のクリームをすくった段階だ。うん、甘いね。美味しいね。──でもそれだけ? と、ちょっと首を傾げた。
はいご安心を。もちろん、それだけではない。第一話では、この「月と私」がかつては地味でしょぼくれた店だったという話が出てくる。およそ接客には向いてなさそうな職人がひとりで店を切り盛りしていたらしい。そして第二話の最後には、とてもきれいなお嬢さんがシェフをしているという描写がある。
おやおや?
そう、この段階で実は「物語」の種が仕込まれているのだ。ただ甘いだけに見えた表面のクリームだが、それは本体に隠された具材への入り口に他ならない。そして第三話から物語は少しずつ動き出すのである。
ここから先は紹介しないでおこう。ただ、お菓子は甘いだけではないとだけ言っておく。チョコレートに苦みがあるように、ジンジャークッキーに辛みがあるように、この物語もまた、ただ甘いだけではない。
第一話の生活に疲れた七子の話も、第二話の主婦業を放棄したふみよの話も、どこか自分に重ねる読者がいるだろう。同様に第三話以降に登場する苦みや辛みもまた、読者の中にある苦みや辛みを思い出させるかもしれない。
もちろん、メインは甘みだ。だが「あま~い!」と思って食べていると、ふと、苦みが顔を出す層がある、ふと、辛みが舌を刺す一口がある。
でも、苦みや辛みがあるからこそ、甘みが引き立つのである。お菓子もそうだし、恋愛も、人生も──そして小説も然り。人生がただ甘いだけなら、誰も甘いものを食べたいなんて思わないじゃないか、なあ?
おっと、ここから先は紹介しないと書いたが、これだけは言っておかないと。物語の核にあるのは、このストーリーテラーは何者なのかという謎だ。そしてその謎は、「物語とは何か」ひいては「物語を語るとはどういうことか」というテーマに結実していく。そんな手堅いテーマと苦みや辛みを内包しつつ、でも最終的にはすべてが極上の甘さでくるまれるという次第。
そうだ、大事なことを書き忘れていた。作中に登場するスイーツの描写だ。これがもう、美味しそうなことと言ったら! 添えられるストーリーもさることながら、レモンクリームがたっぷり使われたタルト・オ・シトロン、アプリコットのコンポートが入ったシャルロット、ラズベリーのジャムが果肉のように濃厚なレイヤーケーキ。さくさくメレンゲにしゃりしゃり糖衣、出来立てのデザートが美しく盛り付けられたアシェットデセール。ああもう、書いてるだけで幸せな気分になるじゃないか!
人は疲れたとき、甘いものが欲しくなる。けれど急激な血糖値の上昇は体に悪いらしい。ならば。
この『月と私と甘い寓話』で、心にだけたっぷりと甘味を与えよう。それなら血糖値は心配ない。きっとあなたの心の疲れを癒してくれるに違いない。