赤い手帳と一冊の本が導く 大人のための洒脱でロマンティックな恋愛劇

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

赤いモレスキンの女

『赤いモレスキンの女』

著者
アントワーヌ・ローラン [著]/吉田 洋之 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784105901707
発売日
2020/12/21
価格
2,145円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

まだ見ぬ女性の〈声〉に打たれた書店主は

[レビュアー] 辻山良雄(「Title」店主)

辻山良雄・評「まだ見ぬ女性の〈声〉に打たれた書店主は」

手がかりは赤い手帳とモディアノのサイン本……バッグの落とし主に恋をした男性の運命を描いた『赤いモレスキンの女』が刊行。大統領のミッテランが置き忘れた帽子を手にした持ち主たちを描いた『ミッテランの帽子』の著者・アントワーヌ・ローランによる最新作について、書店「title」の店主・辻山良雄さんが作品の魅力を語る。

 ***

 本書の主人公は書店主である。それも家業を受け継いだわけではなく、銀行でのキャリアをなげうち、自ら進んで書店の仕事に金と人生をつぎ込んだ男……。

 日本にも時々そうしたローランのような人物がいて、わたしもそのひとりだ。わたしたち自営業の書店主は、自らの人生を、この手で掴むようにして生きたいといった実存的な欲求に駆られ、店をはじめる。つまりは大好きな〈本〉に、いつでも囲まれていたいのだ。そうした人間はオフィスにいると、いつしか「自分は人生を台無しにしている」と思いこむようになり、やむにやまれぬ気持ちで「手すりを乗り越えて」しまうのかもしれない。

 しかしローランがそのように、〈本〉に憑かれやすい人物であったからこそ、残されていたハンドバッグに入っていた「モディアノ」は、見逃されずにすんだともいえる。彼は朝の散歩途中で見つけた、遺失物と思われる女性用のハンドバッグを、様々な事情から警察に届けることができなくて、それを一旦持ち帰った。誘惑に負けハンドバッグを開いてみると、そこには持ち主の女性を示す様々な身の回りの品と一緒に、滅多に人前に姿を現すことのない、伝説的な作家パトリック・モディアノのサイン本が入っている。そのとき彼は「動きを止めた」のであった。

 書店主にとってみれば、商売の源泉である〈本〉を生み出す作家は創造主、さらにいえば“神”のような存在である。彼はバッグの持ち主をつきとめようと、探偵さながらの行動にでるが(ローランはここでも程度を乗り越えてしまう)、その心境は砂漠のなかで信仰を同じくする人と、運命的に出会ったようなものではなかったか。自分が危うい行動に出ているとは知りつつも、「同じ作家を愛する」という幸運な符合に、彼は賭けてみたくなったのだろう。

 そしてバッグには、もう一つローランの心を大きく動かすものが入っていた。見知らぬ女性の秘めた思いが、数十ページにわたり綴られた、赤いモレスキンの手帳である。

 私は人物の登場しない風景画が好き。

 私は赤アリが怖い。

 本書のもう一人の主人公である、ロールの〈好き〉や〈怖い〉もののリストは、このようにして続いていくのだが、それは本来、人に見られるはずのものではなかった。彼女だけのものであったそのことばは、それを読んだローランのなかで、次第に消すことのできない存在となっていく。

 ことばには、読んだ人を掴まえてしまう力があるのだろう。手帳に書き付けられたロールのリストは、ローランだけに宛てられた手紙として、彼の心の奥底に直接届いてしまったのかもしれない。いまは見たものや思ったことが、すぐさまSNSで拡散されていく時代だが、そこで使われることばの多くは、一瞬のあいだ人目に触れ、あとは流されてしまう消費財のようなものだ。本書でローランは、まだ見ぬロールの〈声〉に打たれ、彼女のもとへ辿りつこうとするが、それはことばを生業とし、その力を信じている書店主らしいふるまいともいえる(その一方で物事に急な展開を与えるのは、彼の現代的な娘であることが面白い)。

 こうしたひそかな追跡を、完成度の高い、芳醇な物語にまで膨らませているのは、著者の確かな技量である。書店の描写は見てきたように鮮やかだし、使われている多くの固有名詞が、いまパリで生きることの息吹を伝えている。人物たちはそれぞれの個性を見せつつも、その違いがかえって重層的なアンサンブルとなり、著者の振るタクトによって、最終的には一つの流れに収斂される。

 そうしたすべての動きが自然であり、読んでいてストレスを感じさせない。この感じ、どこかで体験したことがあるなと思っていたら、エリック・ロメールやフランソワ・トリュフォーといった、同じ国の巨匠の名前がすぐに思い浮かんだ。そう、楽天的でありながら、生きるほろ苦さをしっかりと残した美しいフィルムの数々である。

 いろいろ大変だけど、生きること自体がすばらしく、かけがえのないものなんだ。

 そうしたメッセージが伝わってくる、大人のための人生賛歌である。

新潮社 波
2021年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク