『手の倫理』
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視覚偏重の時代だからこそ考えたい“触覚的関係”
[レビュアー] 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)
西洋哲学の文脈では視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という人がもつ五つの感覚のうち、視覚が最上位とされ、触覚は下級の感覚だとされてきたという。
わからないでもない。光景というのは誰が見ても同じなので客観的で確実なものという感じがする。一方、触覚はあやふやだ。箱のなかにゲル状の湿った物体を入れて目隠しをして触らせたら、大抵の人は気色悪くて反射的に手を引っ込めるだろう。たとえそれが無害なものでも、目で見ないと安心できないわけだ。
でも考えたら、触れなければわからないことは、身の回りにあふれている。自分の分野でいうとアイスクライミングでは尖ったバイルを突き刺さないと氷の状態はわからないし、カヤックではパドルを海に突っこむことで潮流の存在を知覚できる。触覚には内部の奥にある「たえず動いてやまない流れ」を捉える機能があり、触れあうことは相互に嵌入(かんにゅう)しあうことなのである。触れあいが他者との関係を深めるのはそのためだ。
安心と信頼のちがいを論じたくだりにはハッとさせられた。子供にGPSを持たせたら親は安心だろうが、それは子供を信頼していないことの裏返しでもある。触れるという関係性が成立するには、この信頼が前提となる。触れたら相手はどう反応するか。このリスクを乗り越えて触れるには、信頼が必要だからだ。触れるとは、きっと、自己を貫くのではなく、相手との関係に組みこまれ、そこから新しい何かが生みだされることをいうのではないだろうか。
今は視覚偏重の時代なのかもしれない。メールやSNSで表面的な関係をきずき、わかりやすい情報にパッと流れる。触れる関係は相手の反応を見なくてはいけないので面倒で煩わしいのだ。コロナがこの流れを加速させ、もはや触覚的関係にもどるのは不可能ではとも思えるが、だからこそ本書はこの時代を考えることのきっかけにもなるだろう。