『ママ、最後の抱擁――わたしたちに動物の情動がわかるのか』
- 著者
- フランス・ドゥ・ヴァール [著]/柴田裕之 [訳]
- 出版社
- 紀伊國屋書店出版部
- ジャンル
- 自然科学/生物学
- ISBN
- 9784314011785
- 発売日
- 2020/10/02
- 価格
- 2,640円(税込)
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冷徹と情動のあいだ
[レビュアー] 松原始(動物行動学者)
一頭の老チンパンジーが、死の間際、長年親交のあった研究者を抱き寄せ、人間の旧友同士がやるのと同じように、トントンと相手の頭を叩く――本書はそんな情景から始まる。
これがタイトルともなっている「最後の抱擁」だが、普通、生物学者は動物が「長く会っていなかった旧友に再会し、懐かしそうにハグした」といった記述を全力で避ける。そんな記述は客観的でない擬人化されたものであり、科学的に不正確なだけでなく、観察結果に勝手なイメージを付与する有害なものとみなされるからだ。つまり、動物の内的な状態である「情動」を記述することを避け、はっきり目に見える外面の行動の記述に特化してきた。
情動とは怒りや恐れなど、何かを感じた時の心の動き、と言えばいいだろう。著者によれば感情は「情動を自覚した状態」とされているので、人間以外の動物に自意識を無条件に仮定できない以上、ここでは情動としてこう。
著者フランス・ドゥ・ヴァールは以下の理屈で動物の情動を全力で肯定する。まず、人間には情動がある。そして人間は霊長類の一種である。近縁な動物は行動や生理機能が似通ったものと考えるのが合理的であり、生物学者は普通そうする。よってチンパンジーに情動の存在を仮定しても問題ない。証明終わり。そして〈情動の存在を単に肯定するだけでは(中略)先へは進めない〉と、研究の重要性を説く。
人間は動物に接する際、相手の情動を無意識に見てとっていることがよくある。一方で、研究者はそのような擬人的な思い込みを排除するよう叩き込まれてもいる。これは人間がしばしば擬人化による誤りに陥るからだが、ドゥ・ヴァールが述べているのは、その上でさらに、動物の内面にある情動も認めるべきだ、ということだ。むろん、神経系や内分泌系などの客観的で定量的な指標を用いることも含めて。
私自身も長年カラスを研究しており、観察中は常にそのような経験をしている。「メスが警戒音を発して一秒以内にオスは首をあげてその方向を凝視し、ただちに飛び立ってメスの近くまで行き、侵入者に対して激しい威嚇(いかく)行動を行った」という論文的な表現は、自分の脳内の描写としては「メスが悲鳴をあげたのでオスは慌ててすっ飛んで行き、すごい剣幕で怒った」である。研究者はしばしば、この二つの表現の間に立たされている。
本書で怒涛のように披露される動物(多くはドゥ・ヴァールの研究対象である霊長類、特にチンパンジー)の観察例は、「動物なんてしょせん単純なもの」と思っていた方に対しては、大きな衝撃をもたらすだろう。共感、嫌悪、嫉妬、権力志向、自制、仲直りといった、しばしば人間特有と思われる情動や複雑な計画性についてさえ、他の動物と共通性があるのだ。一例を挙げれば、不公平性への怒り。サルが他個体より不当に少ない報酬に癇癪(かんしゃく)を起こすのは理解しやすい。だが自分の方がたくさんもらえる場合でも、不公平を回避しようとすることが述べられている。彼らは平等を知っているわけだ。
一方、動物を飼っている方は特に、動物に心も感情もあるのが当然だと思うかもしれない。だが、その研究や解釈にどれだけ細心の注意が払われているか、そこに留意してほしい。ドゥ・ヴァールは手放しに情動を肯定せず、「情動を仮定しないとむしろ解釈が難しくなる」という例を集めている。
もちろん、動物に情動が進化したのは、情動が生命や社会を維持するのに必要であり、そのような機能を持った個体はより多くの子孫を残すことができたからだ。だが、ある行動をする動物が何を感じ、何を考えているかは、また別の話だ。子殺しをするチンパンジーは何らかの情動に衝(つ)き動かされているはずなのだが(まさか遺伝子頻度を計算して冷徹に判断してはいまい)、行動とその結果のみを記述するならば、そこはスルーである。
それでは面白くないと感じたなら、この本をお読みになるといい。また、動物に対するシニカルでドライな「生物のいかなる行動も全て遺伝子を残すためでありそれ以外の要素はない」といった見方に疲れた方にも。「意識」「自己認識」といった哲学的な言論を、頭がグルグルするまで考えてみたい方にもよいかもしれない。特に七章には、私の即物的な脳が本当にグルグルさせられたことも白状しておく。
最後に一点。ドゥ・ヴァールは「動物は利己的で協力などしない」という言説を批判しているが、それは言うまでもなく大半の動物学者が承知していることだろう。リチャード・ドーキンスやゲーム理論が説明したのは「協力や目先の利他行為が最終的に自分の子孫を増やすなら、その行動は結局、利己的」ということだ。そして、その理屈自体はドゥ・ヴァールも文中で認めている。彼は、動物に情動も共感も認めないまま「動物は利己的なんだよ」と言われることに、情動的に共感できなかったのだろうか。
動物好きとしては、その気持ちはわかる気がする。