死ぬまでに行きたい海 岸本佐知子著 スイッチ・パブリッシング

レビュー

3
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死ぬまでに行きたい海

『死ぬまでに行きたい海』

著者
岸本佐知子 [著]
出版社
スイッチパブリッシング
ISBN
9784884185435
発売日
2020/12/01
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

死ぬまでに行きたい海 岸本佐知子著 スイッチ・パブリッシング

[レビュアー] 柴崎友香(作家)

 行きたい場所を訪ねた記録である。行き先は、勤め先だった街や仲間と思いつきで出かけた海外、名前が気になっていた駅など、様々だ。楽しい思い出ばかりではない。苦い記憶がまとわりつく道を、著者は歩く。

 雑誌掲載時に読んでいて、架空の紀行文だと思い込んでいたことがあった。的確な表現とユーモラスな言葉で、短い道行きの中にも、非日常的な風景や不穏な出来事が紛れ込む。

 訪れた先で、劇的な出会いがあるわけではない。記憶は曖昧で、確かに経験したはずなのに定まらない。一方で父親の子供時代など見たはずのない光景は鮮明に思い浮かぶ。あとからの記憶が混ざり合ったのか、思い違いなのか、決して確定しない答えを探すように、歩いていく。

 実際に歩く道は、数十年前は個人商店だったところがチェーン店に変わっている一方、隙間に古い建物が時間が止まったように残っている。現実と虚構が裏返るような異世界の入口が、そこらじゅうにある。一つの風景には、過去と現在の時間、誰かの記憶が、何層も折り重なり、透けて見える像は幻のようにも感じる。読む側もその中に迷い込み、自分もそこを以前から知っている気がしてくる。

 父方の親戚の家を訪ねた話に、「この世に生きたすべての人の」「些細(ささい)な記憶」が「その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない」とある。人が経験したことの大半は、忘却される。それはどこに行くのか。その問いを読者も切ないほど感じるうちに、自身の記憶も呼び覚まされる。言葉や文章は、このためにあると思えてくる。

 移りゆく風景は、日本のこの数十年の記憶でもある。人が場所を移動するとき、時間の線の上も行き来しているのだと思う。この本の中で出会う素っ気ない街角やむっとするような空気や人の面影は、その線のどこかにずっと残り続ける。

読売新聞
2021年1月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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