『いつも鏡を見てる』
書籍情報:openBD
いつも鏡を見てる 矢貫隆著 集英社
[レビュアー] 小川さやか(文化人類学者・立命館大教授)
タクシーは「鏡みたいなものだ」。本書に登場する運転手の一人はいう。車窓に世の移り変わりを映し、そのなかで翻弄(ほんろう)される人の姿を映していると。
この言葉の通り、本書では、1973年から現在まで、異なる時代にタクシーを走らせた5人(新型コロナ災禍の現在を描いた追章を入れると6人)の運転手の物語が紡がれ、そこに刻まれた各時代の世相が描き出されている。
時は73年、オイルショックの時代、給油やタクシー運賃の値上げと水揚げ目標の設定にやきもきし、ホステスへの淡い恋に胸を焦がしながら京都でタクシーを走らせた21歳の俺。日本がバブルに沸いた88年、関東圏のみならず果ては長野や静岡まで遠距離利用の客を乗せて走った磯辺。2005年、霞が関の役人と特別な関係をもつ「居酒屋タクシー」で稼いだ中邑。07年、農協に言われるままに新規の作物に手を出して借金を重ね、病に陥り、追いつめられて大分から上京し、タクシー運転手となった藤枝。10年、これらの運転手たちの人生が北光自動車交通で交錯する。なぞ解きのような仕掛けで、プロローグで語られる「失敗談」の主である山中が登場し、4人の運転手の現在の姿と「おりか家」の女主人の正体が明かされる。
世の中が不況を実感するずっと前に影響を受け、世の隅々まで好景気の波が行き渡って初めてその余波が伝わるというタクシー業界。著者があとがきで述べるように、タクシー運転手たちは市井の人々の代表であり、彼らの物語はそれぞれの時代にそれ以外の業界にも遍在しただろうものだ。だが同時に仕事や行き場をなくして漂う人々の受け皿ともなってきたタクシー業界で紡がれる物語は、各時代の経済の軋(きし)みや政治のゆがみを最も鮮明に体現してもいる。
業界独自の仕組みや習わしと運転手らの生きざまとともに、あの時代、そしていまの日本の姿がみえてくる本だ。