心地よくユーモラスに感覚をくすぐるかつての東京の風景

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心地よくユーモラスに感覚をくすぐるかつての東京の風景

[レビュアー] 北村浩子(フリーアナウンサー・ライター)

 吉田篤弘の文章の心地よさは魔法のようだ。ぬくもり、清潔感、品のいいユーモアがまんべんなく湛えられ、読んでいる時間を必ず上質なものにしてくれる。

 子供時代の思い出が綴られたエッセイ『金曜日の本』の主な舞台は、一九六〇年代から七〇年代の東京・世田谷。〈まだ戦後の貧しさが消えのこっていた〉路地裏のアパートに、著者と両親の三人が住んでいる。メンマ工場から漂ってくる得もいわれぬ匂い、欠けたクッキーやラスクを石油缶の上に並べて売る菓子工場、薔薇園の奥の母屋に住む美青年の大家さん、駄菓子屋の裏の住宅街にいた高齢の猿──当時の日常から抜き出されるそれらは、思い入れ過多にならず描写され、読者の頭の中の簡易地図に押しピンを増やす。

 金曜日に図書館で借りた本を週末に読むのが楽しみだった少年の世界に、ビートルズ、ステレオ、サーティワンアイスクリーム、ハンバーガーなど、様々な片仮名文化が親やおじたちからもたらされる。海外小説や絵画、プログレッシブ・ロックの魅力を教えてくれたのはいとこだった。そのいとこたちと海の家へ遊びに行った日の夜、少年は〈得体の知れない巨大な何か〉が自分のまわりにたちこめていると感じる。そこからの数行の記述は、静かなのに圧倒的だ。

 世田谷に生まれた向田邦子の随筆集は、没後四〇年となる今も多くの読者を得ている。忘れがたい作品がいくつもあるが、中でも『眠る盃』(講談社文庫)に収録された「中野のライオン」は、昭和の東京にこんな風景があったのかと驚かずにはいられない。

 又吉直樹『東京百景』(角川文庫)は、自意識というフィルターを通して平成の東京を写し取った散文集。十八歳で上京して初めて住んだ三鷹、異国のように見えた代官山、覚悟を決めて服を買いに行く原宿、夜明けまで相方とネタ合わせをした世田谷公園。芸人を目指しながら、自分の「何者でもなさ」に苛まれ、もがいた日々の思索が都会のあちこちに溶けている。エッセイの顔をした奇譚も味わい深い。

新潮社 週刊新潮
2021年1月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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