『無垢の博物館 上』
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こじれる片思いの悩ましくも濃密な物語
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「片思い」です
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『無垢の博物館』はトルコのノーベル賞作家オルハン・パムクの受賞第一作。肉体の快楽が、一転してひたすら我慢の片思いに転じていく構成が効いている。
主人公のケマルは、若き会社社長。近々、外交官の娘と結婚の予定である。何と幸せな男かと、自分でも思っている。だがある日、遠縁の娘フュスンと久しぶりに遭遇。フュスンは18歳、まばゆい美しさにケマルは魅せられる。まもなく二人は一線を越えてしまう。
秘密の悦びに惑溺したのも束の間、フュスンが不意に行方をくらまし、ケマルは絶望の淵に突き落とされる。婚約は破棄され、彼はフュスンの幻影に苛まれる。339日後ついに再会を果たしたとき、フュスンは人妻になっていた。そこからいよいよ、延々とこじれる片思いの、悩ましくも濃密な物語が展開される。
「映画に魅入られたかのように」という言い回しが出てくる。もはや手の届かない存在であるフュスンに主人公が捧げ続ける熱愛には、どこか映画的な感触がある。“一度消えたのちに再会した女”の色香は、作中に名前の見えるヒッチコックの『めまい』を思わせるなまめかしさだ。小説後半はトルコの映画業界を背景に、男女の人生の歯車が狂っていく次第が痛切に描かれる。
ケマルはフュスンにまつわる品々を集めて私設博物館を作ろうと思い立つ。9年前、パムクはその博物館を実際に開館したというから驚く。作者こそ最も激しい片思いを空想上のヒロインに対し抱き続けたのだ。