「文化人」兼「お笑い芸人」の“養分”となった下町生活

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浅草迄

『浅草迄』

著者
北野武 [著]
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309029214
発売日
2020/10/24
価格
1,430円(税込)

「文化人」兼「お笑い芸人」の“養分”となった下町生活

[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)

 ここ何十年かでお笑い芸人の社会的地位は著しく上がった。それは、テレビの求める瞬発力によく応えつつ、司会業や映画監督など多方面で活躍する者が現れたからだろう。こうなると、その輝きにつられてさらに新たな才能が蝟集するようになる。

 この動きを牽引してきた筆頭格が北野武であることは言を俟たない。彼こそ、お笑い芸人がまた一流の文化人でありうることを証明した嚆矢である。では、その「文化」はどこでどのようにして育まれたのか。本書はこの類まれな才能が醸成された幼少期から青年期までをつまびらかに明かすものである。

 タイトルは、浅草で芸人となる迄の物語ということだろうが、ここには不思議とお笑いそのものの話は少ない。寄席に通い詰めて漫才師に憧れて……というような経験は一切描かれていない。高校の文化祭でやっていた落研の「饅頭こわい」が聞けたものではなかったというくらいだ。

 では一体何がのちのお笑い大スターの養分となったのか。一言で言えば、下町の生活のすべてである。怒りっぽいが気の小さい酒飲みの父親と無学ながら教育熱心な母親、そして優秀な兄姉たちに囲まれた、団欒というよりは喧騒に満ちた家庭と、さらには似たような環境で育った友人たちとの悪ふざけ。小動物へのいたずら、喧嘩など、今から見ると粗暴で残酷とも言えるようなハチャメチャな遊び。花火で小指をふっとばしてしまう経験などは、もちろん当時でも悲惨だったはずだが、それが懐かしく思い返されているのは、時のヴェールがかかったというばかりでなく、その経験が血肉となり成功した現在の目で振りかえられているからにほかならない。

 父親の振舞いをはじめ、エピソードの数々はそのままネタになるほどおもしろいが、しかしそれだけで芸人になれるわけではない。エピソードをいかに芸へと昇華させていったのか、続編「浅草にて」が待たれる。

新潮社 週刊新潮
2021年2月4日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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