平凡な家庭に潜むドロドロした部分を浮かび上がらせる闇深いミステリ作品

レビュー

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妻は忘れない

『妻は忘れない』

著者
矢樹 純 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101023816
発売日
2020/10/28
価格
649円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

特別な才能

[レビュアー] 東えりか(書評家・HONZ副代表)

東えりか・評「特別な才能」

じわじわと口コミで人気が広がり、第73回日本推理作家協会賞短編部門を受賞した『夫の骨』の著者・矢樹純による最新作『妻は忘れない』が刊行。平凡な家庭に潜む秘密を鮮やかに浮かび上がらせる5篇の短編を収録した本作の読みどころを、書評家でHONZ副代表の東えりかさんが解説する。

 ***

 書店の中をぶらぶらと棚を見ながら歩いていると、年に何回かは本に呼び止められる。なぜか目に留まる本があるのだ。

 そんなときは迷わず手に取って数ページ読む。九割がた面白い本に出逢えるのは、そういう勘を長年磨いてきたからだと自負している。本好きなら多くの人が「そうそう」とうなずいてくれると思う。

 矢樹純の『夫の骨』(祥伝社文庫)との出会いもまさにそうだったのだ。名前も性別も、もちろん年齢も知らない作家なのに心惹かれた。冒頭を読んだだけで「これはいい」と思った。家まで我慢できず、買い求めた本を近くの喫茶店で読み始め確信した。これは大当たりだ。

 じわじわと口コミで人気が広がり、表題作は第七十三回日本推理作家協会賞短編部門を受賞した。選考経過を読むと、最初の投票から高得点だったようだ。各選考委員の評も表現力やラストシーンの切れ味の良さに言及している。

 小説家としてデビューした後、次の作品を出すことが叶わず、出版の当てのない小説を月に一本書いていた作品をまとめたものが『夫の骨』であったと、受賞の言葉で初めて知った。この作家が女性であるということも。

 待望の新作が出るらしいと聞いたのは、梅雨のころだったろうか。いつだろう、どんな作品だろうと心待ちにしていた。

『妻は忘れない』は受賞後第一作目となる短編集である。「小説新潮」に掲載された一作と作家自身の《note》に発表した作品を改稿したものに三作の書下ろしを加えた五作の短編小説集である。

 それぞれが独立した小説であり、どれもが長編小説になってもおかしくないと思える濃密な読みごたえである。私の期待を大きく上回る満足の出来栄えだ。

 表題作「妻は忘れない」では夫の行動に不審を覚えた妻の悩みを描く。所詮夫婦は他人だな、と思う。

「無垢なる手」では子どもの関係だけで付き合わなくてはならないママ友に対する不満を、「裂けた繭」ではひきこもり青年の生活を、「百舌鳥の家」では上京した女性と、故郷に残ったその姉との葛藤を、「戻り梅雨」では頼りない息子の将来を心配する母親を、細かく描いていく。

 平和に見える家庭や日常も、一皮むけば様々などろどろが潜んでいるものだ。登場する女性たちのほとんどは特別な人たちではない。読者と同時代に生きる等身大で、同じ年代ならではの悩みや苦しみを理解できる女性たちである。

 本書ではまず、彼女たちの嫌な面から抉り始める。家族にだって見せない本音を独白の形で暴露していくのだ。心の闇を覗き込むようにして物語は進む。

 醜いとも浅ましいとも、情けないとも思える「私」の言動に、読者はちょっとだけ怯むだろう。情けない夫や出しゃばりな姑にイラッともするだろう。だがそのありきたりとも思える風景が、あるとき一瞬でぐるりと転換する。

 ミステリーの王道ともいえる手法で、気持ちいいくらいに騙される。ハッピーエンドでなくても騙されたことが心地いい。これぞミステリー小説の醍醐味だと思う。読み終わると結末の話をしたくてすぐに誰かに勧めたくなる。

 小さな不満がない人なんていない。喧嘩にはならないけれど、心の澱は積もりに積もっていつか爆発するかもしれない。夫婦や親子、兄弟や友人に対する感情の行き違いを、ひとつずつ丁寧に拾い集め、つなぎ合わせたあとに現われる意外性がこの作家の特別な才能だと思うのだ。

 昨今報じられる凶悪事件の中には、あまりにも理不尽に感じられて背景や理由が知りたいと思うものが多い。

 祖父が孫娘を殺し、出会い系サイトを使って中年男性が幼い少女を誘拐する。窃盗やいじめの動画がネットに流される。オレオレ詐欺はどんどん進化して巧妙になり、8050問題と名付けられた中高年のひきこもりに解決策は見いだせない。

 新型コロナ禍はそんな状況をさらに拡大させた。高齢者問題はさらに浮き彫りにされ、外出禁止の空間では、DVや幼児虐待が繰り返されている。だが大きな事件が起きるまで、みんな平和な暮らしを装っているのだ。人間の本質を暴きだす物語をじっくりと堪能してほしい。

新潮社 波
2020年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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