さのよいよい 戌井昭人著 新潮社
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
民俗学者の宮本常一が書いた作品「土佐源氏」は、目の見えなくなった老人が、過去の情事を思い返す語りによって綴(つづ)られた一篇(いっぺん)である。この『さのよいよい』の主人公は、「土佐源氏」を映画化したいと長らく望んでいる男。空回りする夢のせいで、かつて結婚相手にも愛想を尽かされたのだった。そしてうだつのあがらない脚本家として暮らしている。
しかし三十七歳になった年の夏、また別な老人の回想語りと出会うことになる。認知症が始まった祖母が口にした、昔の事件。家族ぐるみで信仰していた「お不動さん」の寺が放火によって消えた。祖母、母親、現場近くの料理屋と、老人たちから話をきくうちに、自分の一家の意外な過去も明らかになってゆく。
「お不動さん」をめぐる物語は、トラブルの案件だけとりだすなら、占いや信仰にまつわる小事件にすぎないかもしれない。だが、食堂の給仕から銀座のクラブホステスに抜擢(ばってき)され、さらに祈祷(きとう)師に転じたカリスマ女性である「大先生」、息子として深い屈託を抱えた「住職」、「住職」が語る平安時代の絵師といった登場人物の姿が、一つ一つ粒だった印象を残す。そして不動明王の絵と現実の事件に共通する激しい炎。
いやなことは「火にくべて燃やせばいい」。また「自分の踊りを踊っていれば」消えてゆく。「お不動さん」の熱心な信者であり、盆踊りの名人でもある祖母のこの言葉が、物事を成就するための情熱のありようを指し示している。その姿はユーモラスでありながら、毅然(きぜん)とした気品を漂わせ、主人公の背中を押すことになる。
だがその言葉には、「たいがいのこと」は消えていったという限定がつく。どんなに情熱を注いでも、あるいは思わぬ幸運に恵まれたとしても、ままならない部分はやはり残っている。前へ進もうとする夢の甘美さと、現実のほろ苦さ。過去をめぐる語りから、その両方の味が立ちのぼってくるのである。