ミルクマン アンナ・バーンズ著 河出書房新社

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ミルクマン

『ミルクマン』

著者
アンナ・バーンズ [著]/栩木玲子 [訳]
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309208138
発売日
2020/12/01
価格
3,740円(税込)

書籍情報:openBD

ミルクマン アンナ・バーンズ著 河出書房新社

[レビュアー] 柴崎友香(作家)

「私」の家族や近隣の生活。だが、退屈ではないどころか、見知らぬ町の事情と彼女の心情にすぐに引き込まれる。

 爆弾テロや抗争による殺人など、町で起こっていることは凄惨(せいさん)であるが、母親の関心は娘たちが結婚して子供を生むことだけ。人々が状況に麻痺(まひ)して日常の生活を営んでいることこそが、滑稽でもあり怖(おそ)ろしくもある。

 登場人物は「毒盛りガールの妹」「義兄その3」など独特のあだ名や役割名、つまり周囲から与えられた言葉で呼ばれる。誰もが「私たち」「彼ら」「境界の向こう側」「海の向こう側」「あちら側」「こちら側」などと、敵か味方、どちら側かでのみ判断される。硬直した価値観と先が見えない閉塞(へいそく)感の中、人々は変化を拒み、世間体に固執している。「私」が通うフランス語教室で空に「青」以外の色があることさえ受け入れられない人々の姿は、おかしくも哀(かな)しい。

 そんな町で「私」が19世紀以前の小説を「読み歩き」しているのは、別の場所に想像を巡らせて自分を保つためだろう。事実より噂(うわさ)を信じる人々、本人さえもその噂にのみ込まれていく恐怖感は、現在の日本に生きる私たちにもリアルに迫ってくる。家族や近隣の、さらに自分自身の妄想に抗(あらが)うため、複雑な人間関係をひたすら見つめ、思考を言葉にし続ける「私」の語りは、無力な少女のささやかな武器のようだ。

 愛する者を失う不安から違う選択をしてしまう悲劇が連鎖する地で、ありのままの空の色や人々の悲しみに気づいた「私」と周囲の人々の関係は、ほんの少しずつだが変わっていく。70年代を90年代から振り返る視点で2018年に出版されたこの小説は、著者が体感した変化をその時間の層に映すことで、希望と意志を宿した物語になったのだと思う。栩木玲子訳。

読売新聞
2021年2月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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