「母も、祖母も、その母も、私たちはこの胸の痛みと生きてきた」 米国在住ヒスパニック系コミュニティの苦悩と葛藤を描いた女性作家が語る

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サブリナとコリーナ

『サブリナとコリーナ』

著者
Fajardo-Anstine, Kali, 1986-小竹, 由美子, 1954-
出版社
新潮社
ISBN
9784105901677
価格
2,310円(税込)

書籍情報:openBD

故郷に生きる女たちを書きたかった

[文] 江南亜美子(書評家)

カリ・ファハルド・アンスタイン・インタビュー「故郷に生きる女たちを書きたかった」


カリ・ファハルド・アンスタイン(©Graham Morrison)

女たちは若くして妊娠し、男たちは身勝手に姿をくらます――。コロラド州デンバー、ヒスパニック系コミュニティのやるせない日常を描いた『サブリナとコリーナ』。デビュー作がいきなり全米図書賞の最終候補となった、話題の新人作家・カリ・ファハルド=アンスタインへのインタビュー。

 ***

 フーリア・アルバレスが自分のデビュー短篇集『サブリナとコリーナ』に推薦文を寄せてくれたと知ったとき、カリ・ファハルド=アンスタインは膝が崩れそうになった。数日後、サンドラ・シスネロスもまた本書を称賛しているとわかって、泣いた。

「読書はずっと好きで、高校でフーリア・アルバレスとサンドラ・シスネロスを読んではじめて、わたしのような人間でも作家になれるかもしれないと本気で思ったんです」とファハルド=アンスタインは語る。

「文学は大好きでしたが、文学の世界がわたしのような南西部出身の混血のチカーナを歓迎してくれるようには思えませんでした」 『サブリナとコリーナ』に収められた十一の短篇で、ファハルド=アンスタインは自分の故郷のチカーナたちへ――コロラドを貫く山脈と同じく打ち砕かれることはなく、そこを囲む不毛の砂漠のように回復力のある女たちへ――のラブレターを綴る。

祖先の頭越しに国境が移動

 ファハルド=アンスタインの育ったデンバーは、人口の三割以上がヒスパニック、ラティンクス、アメリカ先住民とされているが、近年、こうした多様な人種からなるコミュニティの多くの人々が、デンバーの急速な発展の犠牲となっている。デンバーは今や全米でも最低水準の失業率を誇っているが、また一方で地域再開発による高級化(ジェントリフィケーション)がもたらしたヒスパニック系コミュニティの強制退去の規模においても群を抜いている。これは本書の大動脈を流れている痛みだ。

 最後の一篇「幽霊病」で作者は、大学建設のために住んでいた家から立ち退かされた人々の子や孫に授与される奨学金で大学に通う若い女性を描く。これはコロラド大学デンバー校に実在する奨学金がモデルとなっている。発展の名のもとに強いられた犠牲をまざまざと思い出させるこの奨学金は、善意から出たものではあるが、世代にまたがる傷を修復するにはじゅうぶんとは言えない試みだ。

 故郷の街の急速な高級化は、南西部にルーツを辿るのがいちばん手っ取り早い女たち、デンバーとその周辺を故郷と呼んできた一族の女たちの物語を書きたいと作者に思わせた要因のひとつなのだ。

 多くのチカーナがそうであるように、ファハルド=アンスタインは移民第一世代ではないし、移民第二世代ですらない。彼女の一族は何世紀ものあいだアメリカで暮らしてきた――「わたしの祖先の頭越しに国境が移動したんです」と彼女は語る――だから、本書には移民の経験はあえて書かれていない。

「大学での副専攻科目はチカーノ研究だったので、ラティンクスの経験を描いたさまざまな文学に触れました」とデンバー・メトロポリタン州立大学で文学士号を、ワイオミング大学で芸術学修士号を取得したファハルド=アンスタインは語る。「でも、わたしが繰り返し繰り返し読んでいたのは、最近の移民の経験に関する本でした」と作者は言う。「わたしにはそういった作品が必要でしたが、一方で、そういう作品のなかにわたし自身の姿はありませんし、家族の姿もありません。わたしはとにかく、自分たちが登場するような本があればいいのにと思ったんです」

自分にとって自然に書きたい

 自分にとっての本当のところを書こうとして、ファハルド=アンスタインは、多くのラティンクス読者ならすぐさまわかってくれるであろうハードルにぶつかった。自分の文化をじゅうぶんに体現しているとは言えないのではないかという気持ち、そして、自分の実体験からすると嘘くさく感じられる書き方をしろとプレッシャーをかけられている感覚である。

「書き始めたさいしょのころ――つまり、ワークショップとか教室とかで――よく先生から言われたんです。『ここをもっとメキシコっぽくしたら?』『どうしてこの人たちはスペイン語でしゃべらないの?』『あのさ、もっと食べ物のことを書いたら?』わたしの物語にとってはどうでもいいようなことばかり。おかげで自分の作品がちゃんとしたチカーノらしく思えないような方向へいってしまいました。なんだか白人が書いたみたいになってしまって。ところが、事実は複雑で、わたしの登場人物たちはプエブロ族の出身なんです、だから先住民でもあるわけで」

 ファハルド=アンスタインのスペイン語は流暢ではないし、本書はすべて英語で書かれている。なかの一篇――1950年代に時代設定された「姉妹」――で、登場人物たちがいつスペイン語でしゃべり(家にいるときは、たいてい)、いつ英語でしゃべっているか(人前では、常に)、作者は文章で明示している。

「わたしたちの先祖にとってスペイン語で話すのは恥ずかしいことだったのだと思います。そして今わたしは、スペイン語をしゃべれないことが恥ずかしい」とファハルド=アンスタインは言う。「わたしはスペイン語を身につけたい。でもまた同時に、自分がモノリンガルであることを恥ずかしく思わないでいられるようになりたいとも思っています」

 ピュー研究所の2015年調査報告書によると、ラティンクス移民の親の九七パーセントが子供にスペイン語で話しかけるが、第二世代の親になると比率は急激に低下して七一パーセントとなり、第三世代かその後の世代の親では五〇パーセント以下となる。アメリカで暮らすラティンクスの人々の八八パーセントが、次世代がスペイン語を話すことは重要だと思っている一方で、七一パーセントの人々が、スペイン語を話すということはラティンクスと見なすにあたって必要な条件ではないとも考えている。

 このデータが意味することは明らかだ。ラティンクスの家族は、アメリカ暮らしが長くなればなるほど新世代が家庭でスペイン語会話能力を身につける可能性は低くなる。そのため、自分のルーツをラテンアメリカの国に求めるのが簡単ではなかったり、スペイン語や先住民の言葉をしゃべれなかったりすると、自分は本当にラティンクスなのか、というアイデンティティの危機を招く恐れがあるのだ。

「過去のラティンクス文学の大半において、作中にはスペイン語が必要だといった考えが根本にありました、文化のパフォーマンス――わたしはずっとこの言葉を使っているんですが――が必要とされていて、わたしはそれを断固拒否したいんです」と彼女は語る。「以前はもっとスペイン語を入れていました。でもそうすると、スペイン語が流暢な友だちに間違っていないか訊かなくちゃならなくて。わたしはただ、自分にとって自然に感じられるように書きたかったんです」

新潮社 波
2020年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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