『母影』
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見えないものを見ようとしていた頃、一体、何を見ていたのか
[レビュアー] 武田砂鉄(フリーライター)
先日、本書の著者とラジオ番組で話す機会があった。面と向かって話すのは初めてだったのだが、あちらから話を切り出す時に、まず、こちらを見るのではなく、視線を一度、宙に泳がせて、その後で、こちらを凝視する。泳がせてから凝視、これを繰り返していた。誰に対してもそうなのかは知らないが、その様子を見ながら、この小説の語り手のようだ、と思っていた。
小学校低学年の「私」の母親は、性的マッサージをするお店で働いている。「私」はいつも、となりのベッドで宿題をやりながら終わるのを待っている。何をしているのか、わからない。でも、少しずつわかってくる。
「いつもお店で何やってるの?」
「変なことしてるでしょ」
どのように変なのか、詳しくはわからない。「私」は、学校でいじめられている。ある日、銭湯で、「お前、死ねですって言って私の肩をぶった」同じクラスの男子に会う。その男子は「お腹の下」にある「何か」を隠しながらお湯につかっていた。
コミュニケーションって、そう簡単には成立しない。こちらが考えていることを、そっくりそのままあちらも考えていた、なんてことは少ない。大人になると、どちらかが、相手の考えを想像し、当てはめるような言葉を発するようになる。それが上手になるほど、大人になったね、なんて言われてしまう。
男子の家に行った「私」の視線は、あちこちに泳ぐ。
「れいぞうこから光がこぼれて、部屋のおくに私の家と同じくらいのびんぼうをみつけた」
「せんぷう機の風がヒモをひらひらさせながら、ゴミバコからあふれそうなティッシュのかたまりをひやしてる」
「せんぷう機を消してみたら、急に部屋がしずかになって、私がツバを飲む音もうるさくなった」
「私」の五感はとても敏感なのに、ある部分には鈍感。母親がとなりのベッドで何をしているのか、その想像はずっと追いつかない。アンバランスな「私」だが、そうやってアンバランスなままバランスを保とうと試みるのが、子どもの視線というものなのかもしれない。小説全体に染み渡る視線の揺れをどう体感するかによって、この小説の読まれ方が変わってくるはず。
目をそらすのも、まっすぐ見るのも視線だ。見えない世界を見つめようとしていた頃を思い出させてくれるが、読みながら思い出した視線は、あの頃とは違うものに決まっている。置いてきたものを読んだ気がした。