『その扉をたたく音』
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『その扉をたたく音』著:瀬尾まいこ を寺地はるなさんが読む「しっかりと耳を澄ませて」
[レビュアー] 寺地はるな
しっかりと耳を澄ませて
なにげなく手にした本の中の一節に、どうしようもなく涙があふれた経験がある。なにもないと思っていた街で思いがけなく美しい景色に遭遇して、息を吞んだことがある。
ひとの心を揺さぶるものは世界のいたるところに存在し、さまざまなかたちをとってわたしたちの前に現れる。でもこちらが他のことに気をとられていたり体調がすぐれなかったりする時には、うっかりスルーしてしまうこともある。
主人公、宮路(みやじ)にとっての「心を揺さぶるもの」はサックスの音となって現れた。入居者のための余興としてギターの弾き語りに老人ホーム「そよかぜ荘」を訪れた彼の人生の物語が、そこから動き出す。入居者に買いものを頼まれたり、ウクレレを教えることになったりしながら、件(くだん)のサックスを演奏していた渡部(わたべ)という青年とも親しくなっていく。
宮路は二十九歳無職で、とくに働けない理由もないのに実家から仕送りをもらって生活している。能天気な人生だなおい、と思う人もいるかもしれない。わたしは思った。しかしあらためて考えてみると、人が能天気であることはべつに悪いことではない。すくなくとも宮路のそれはすこやかさと同義に見えた。
頼まれた買いものを適当に済まさない几帳面さにも、ウクレレを教える時の態度にも育ちの良さが滲(にじ)み出ている。育ちが良い、とはお金をかけられて育つことではない。ひとりの人間として尊重されてきたということだ。
本作は、宮路がその能天気さを武器に「そよかぜ荘」の人びとの抱える問題を解決していく話ではない。能天気ではない周囲の人たちが宮路を現状から救ってくれる話でもない。それぞれが自分の意思にしたがって行動し、相互に影響し合い、ゆるやかに人生の物語をすすめていく。そこが素敵だと思う。
読了後、あらためてタイトルが胸に迫る。いま立ち止まるすべての人が、しっかりと耳を澄ませて「その扉をたたく音」を聞くことができますように。
寺地はるな
てらち・はるな● 作家