川端康成が認めた夭折の天才作家。病といのちを描く、珠玉の小説集。『いのちの初夜』解説

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

いのちの初夜

『いのちの初夜』

著者
北条, 民雄, 1914-1937
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041109755
価格
704円(税込)

書籍情報:openBD

川端康成が認めた夭折の天才作家。病といのちを描く、珠玉の小説集。『いのちの初夜』解説

[レビュアー] 高山文彦(作家)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:高山 文彦/ 作家)

 北條民雄を最初に読んだのは二十歳のとき、角川文庫版の『いのちの初夜』であった。それから二十年経って私は北條の評伝(『火花 北条民雄の生涯』)を書き、それからまた二十年あまりが経過するなかでこの文庫は刷られなくなり、世界もすっかり様変わりしてしまった。東日本大震災と福島第一原発事故からの復興や解決のめども立たないうちに、列島各地を大規模な風雨災害や地震がくり返し襲い、そして今年はコロナ・パンデミックに世界中が蔽い尽くされて、私たちの文明は新しいあり方への転換を避けて通れなくなっている。

 そんなときに本文庫の復刊は、生々しく鼓動するレアな心臓をポーンと中空から投げ込まれたような感触がある。どれを読んでも空疎な言葉はひとつもない。血の通った人間の誠実で切実で実感的な思考と正確に選びとられた言葉たちは、不安と恐怖に侵食されつつあるいまの私たちの精神をしかるべき位置にもどそうとするはずだ。

 これらの作品が二十歳を過ぎて間もない無名の一青年によって書かれ、思いがけない場所から放たれたことに、いまさらながら驚きを禁じ得ない。しかもその小説は近代の作家たちがさまざまに取り組んできたテーマと手法を正統に受け継いでおり、同じこの世にあるものとは即座に理解できかねるような出来事を物語りながら、読む者の心を否応なく鷲掴みにしてしまうリアリズムとリリシズムを兼ね備えていた。

「今日のような世の万人に、人生と生命に就て新に思うところあらしめ、或いは心の糧を与え柱を立てるであろう」と川端康成は彼の小説を手放しで評価しているが、八十年以上もまえに二十三歳の若さで尾羽打ち枯らすように死んでいったこの青年も、世間の悪しき俗信にとりまかれながら、不安と恐怖に押し潰される毎日を文学にすがって生きていたのだ。その精神の振れ幅はとても私たちの卑小さの比ではなかったはずだけれど、でもそれでも彼の言葉が人に「心の糧を与え柱を立て」たことは、戦前戦後を通じてその作品集が世代をこえて幅広く読まれ、ベストセラーでありつづけたことから見ても明らかであろう。

 それはなぜか。生命の根源にたいする深い絶望と生存への強い願望、この二律背反する自我に悶える近代人らしい懐疑や衝動が見事に文学として昇華され、読者ひとりひとりの心を揺り動かしたからである。「人生は暗い。だが闘う火花が一瞬の黒闇を照らすこともあるのだ」と病友への献辞にしるした北條の生と死の断崖に仁王立ちするような真情をまえにして、私たちは立ち止まり、自己の闇の奥を覗き込まざるを得なくなる。

北條民雄『いのちの初夜』 定価: 704円(本体640円+税) ※画像...
北條民雄『いのちの初夜』 定価: 704円(本体640円+税) ※画像…

 彼の肉体と精神を苦しめたのは、そのむかし癩病と呼ばれ恐れられたハンセン病であった。いまの日本には絶えて久しい伝染病で、たとえ罹患しても特効薬の服用で快癒する。彼の生きた昭和初期には罹患者は全国の療養所に強制収容され、業病とか天刑病などと言われて、病者を出した家は住み慣れた土地を離れたり、一家離散する場合もあった。北條のように自殺を図った患者も、自死をとげた患者も数知れないだろう。私は彼が暮らした多磨全生園(当時は全生病院といった)で園長をつとめた大西基四夫氏から、病名の診断を告げたときの母と息子の異常な取り乱しぶりを聞いているが、それはもう戦後の話なのである。患者が出た家は、たいてい患者を除籍した。北條もまた籍を抜かれ、社会には非在の者として療養所に入院し、「いのちの初夜」をはじめとする小説群を不自由な寮舎内で書きつづけたのだ。巻末の年譜を見てもらえばわかるように、作家として活動したのは正味二年半ばかりなのである。

 とりわけ代表作の「いのちの初夜」の完成度は高くて、暗いとか悲惨とかそういった上辺の印象論など軽やかに粉砕して、眠りかけていた私たちの実存の底をはげしく揺さぶってくる。小林秀雄は「悪臭を発して腐敗している幾多の肉塊に、いのちそのものの形を感得するという、異様に単純な物語」であると述べて、「作品というよりむしろ文学そのものの姿を見た」と驚きを述べているが、その小林に川端康成は「この小説を読むと、まず大概の小説がヘナチョコに思われる」と言っている。ふたりのこのような率直さに、衝撃の度合いがあらわれているだろう。

 ともに暮らす病者にしか見たり触ったりできぬ院内の日常を北條は生きていたし、顔が崩れ、盲目となり、手足も切断せざるを得なくなって仰臥するばかりの重症患者たちの呻き声を、自分の未来の声として軽症者の彼はよく理解していた。そうした同病の人びとの苦しみや痛みや悲しみを拒絶したくなる自己の動揺についても、なるだけ冷静に眺めようとする観察者の目をもっていた。ある異様で限定的な世界でくりひろげられる人間の計り知れぬ悲喜劇が、彼らを苦しめてきた側につながる私たちの狭隘な精神を鍛えなおしてくれるというのも不思議なめぐり合わせではあるが、一方通行的な告発とか心情吐露ではない、第一級の芸術にまで仕上げられてみれば、驚きや衝撃は感動と共感に変わり、より深くわがこととして「人間とはなにか」という問いに向かい合わせてくれるだろう。

 ここで言い添えておかなければならないのは、川端康成と北條の関係である。この世(一般社会)とあの世(療養所)ほどの隔たりに両者はありながら、北條は原稿をつぎつぎに書きあげて川端に送り、川端はいちいち丁寧に読んで返事を書いている。発表にかなうものは雑誌に発表した。それだけではない。たびたび激励の手紙を出し、原稿用紙や現金の世話までしてやっている。生前唯一の単行本となった小説集『いのちの初夜』も川端の尽力で創元社から出版され、著作権管理者でもある川端が増刷のたびに検印した。葬儀の日には療養所を訪れ、亡骸と対面し、病友たちと面会した。北條全集に必要な原稿執筆や資料集めを彼らに依頼して(本文庫所収の光岡良二「北條民雄の人と生活」もそのひとつ)半年後に出版している。

 きびしい禁圧の時代、こうしたふたりの蜘蛛の糸をたぐりあうような師弟関係がなければ、秘密にされていた院内の赤裸々な生活記録はもとより、この世にありながらこの世にないとされてきた病者たちの内なる声は、こうやって後世にまで届くことはなかったのだ。これは内と外にある者とがはじめて手を結び合い成しとげた歴史的事業と言える。

 川端は最初の手紙を北條から受けとったあと、専門医のもとを訪れ、ハンセン病は極めて感染力の弱い伝染病であるという説明を受けている。死者の骨からも感染るなどと言われていた時代、多くの人びとがそれを信じ、遺伝病だと曲解する人びとまであったが、正確な科学的知見を得た川端は、療養所から消毒薬まみれになって送られてくる原稿用紙を縁側で乾かしながら端然と読み、「俺は俺の苦痛を信ずる。如何なる論理も思想も信ずるに足らぬ。ただこの苦痛のみが人間を再建するのだ」と人知れずメモした北條の魂そのものの作品を世の中に送り出しつづけた。情報分断や誘導によって思考停止に陥りやすい現代の私たちは、この一点においても静かに見つめなおす必要があろうと思う。

 さて、北條はいまではもう幻の作家ではなくなっている。実名も故郷の町の名も公表されている。それは生誕百年にあたる二〇一四年のことで、二十三歳の死から七十七年が経過していた。彼の故郷である徳島県阿南市文化協会の長年にわたる係累へのはたらきかけによって公表への了承が得られ、『阿南市の先覚者たち』(阿南市文化協会編)というコンパクトな本の最終ページに「彗星のように出現し/満月の如く輝き/幻として消えた作家」という見出しのあと、ことさら強調するでもなく、このようにしるされている。

 作家。阿南市下大野町(しもおおのちよう)出身の七條(しちじょう)林三郎の次男として、父の勤務地であった朝鮮の京城で生まれた。本名は七條晃司(てるじ)。

 名前は「てるじ」と読む。実父の名前まで明記したところに、彼の存在を幻のまま終わらせはしないという行政・七條家双方の強い意志が感じられるだろう。いまもなお実名を名乗れぬ元患者が数多くあるなかで、人権問題には及び腰になりがちな行政側からの熱意によって公表への道をたどるという極めてまれな手続きを経て、あんなに望郷の念にかられていた彼の霊魂は、ようやく故郷の土に安息できたのではなかろうか。

 実父が遺骨を持ち帰り、故郷の墓所に実名を刻んで小さな墓を建てたのは、発病後除籍したことへの罪滅ぼしの気持ちからであったろうが、戦後しばらくして、ある研究家によって墓影が雑誌に載り、嘆き悲しんだ実父は名前を墓石から削りとってしまった。四半世紀まえ、はじめてそこを訪れたときには、一基の集合墓にまとめられてその墓は確認できなかったが、彼が暮らした古い家も裏庭の蜜柑の木も、小学校の木造校舎もそのまま残っていた。筆名を決めるとき「北條は母方の姓」だと川端への手紙に書いているけれど、実母は七條家の長女であって、実父は養子婿入りの身であったのだから、彼は嘘をついたのだ。「つくづく考えて見ますと、結局本名が一番好きに成りましたけれど、これは致し方ありません」と口ごもるように書き添えられているし、そうしてまで「條」の一文字にこだわる気持ちを思いやると、実名公表は本人の意志にも沿うものであったろう。

 阿南市はつづけて一回きりの設定で北條民雄文学賞を創設し、広く一般の人びとから作品を募集した。正賞に選ばれたのは二十三歳の森水菜さんの「北條民雄様へ」という手紙形式の私小説で、不自由な身体ながらひとりで九州から多磨全生園を訪れ、北條が書き残した童話絵本に触れるまでの心の変遷を描いている。やっと資料館にたどり着いて、絵本をひらいているうちに外では雨が降ってくる。それでも少しもあわてずに彼女は「いずれ止むだろう」と、妙に静かな落ち着きのなかで思う。森さんは熊本の療養所に暮らす元患者と長い交流があるのだった。その後も小説を書きつづけ、地元新聞社主催の文学賞で奨励賞を受賞している。

 昨年、阿南市は徳島文学協会と合同で北條の命日を「民雄忌」と定め、偲ぶ会をはじめて催した。私も出席し、七條家と旧交を温めた。夭折の作家の投げた小石が大海に波紋をひろげていくことを願う。

(二〇二〇年十月二十二日記)

付記 巻末の年譜は株式会社 飛島新社(当時)の山口泰生君が『火花 北条民雄の生涯』のために作成したものを参考に再構成した。記して謝意としたい。

年譜

大正三年(一九一四) 〇歳

九月二二日、陸軍経理部配属の軍人を父に、朝鮮京城府(現在のソウル)で生まれる。三つちがいの兄がいた。

大正四年(一九一五) 一歳

七月、母の急病死により、両親の郷里徳島県那賀郡に暮らす母方の祖父母にあずけられる。

大正六年(一九一七) 三歳

年初、父が退役によって帰郷、父と継母に引きとられる。

大正八年(一九一九) 五歳

三月八日、全生病院で、ガリ版刷り文芸誌『山桜』が創刊。

大正一〇年(一九二一) 七歳

四月、郷里の尋常高等小学校尋常科に入学。

昭和二年(一九二七) 一三歳

四月、同小学校高等科に進む。

四月、同小学校高等科に進む。

兄が肺結核で入院。

昭和四年(一九二九) 一五歳

三月、高等科卒業。三月一五日、山本宣治、渡辺政之輔合同労農葬に参加。四月六日、上京。その後、日本橋の薬問屋や亀戸の工場などで働き、夜間学校にも通う。この年、小林多喜二『不在地主』に強い影響を受ける。

昭和五年(一九三〇) 一六歳

春、ハンセン病の兆候が現れる。

昭和六年(一九三一) 一七歳

夏、城東区亀戸町(現在の江東区)に転居。一一月九日、兄危篤の報を受け帰郷。

昭和七年(一九三二) 一八歳

二月二三日、友人を伴い、家族に無断で上京。三月三日、日立製作所亀戸工場の臨時工員となる。四月下旬、徳島の実家に帰る。六月、葉山嘉樹に文学志望の手紙を書き返事をもらう。九月頃、友人らとプロレタリア文学同人誌『黒潮』を創刊、短編「サディストと蟻」を掲載するが警察に回収され、次号をまたず廃刊。一〇月、家族と別居。一一月、一七歳の遠縁の女性と結婚。

昭和八年(一九三三) 一九歳

二月、足の麻痺をはっきりと自覚、ハンセン病の疑いが強まるなか、妻と別離。三月、徳島市の病院でハンセン病の告知を受ける。一一月、三度目の上京、蒲田区大崎(現在の品川区)の従兄宅寄寓、その後亀戸の駒田家に下宿。この年、東京帝大文学部に籍を置く光岡良二が、全生病院に入院。

昭和九年(一九三四) 二〇歳

入院前、蒲田区町屋町に転居、陰鬱な生活を送る。五月上旬、親友と華厳滝への自殺行。親友だけが自殺。五月一八日、父に伴われ、全生病院に入院。七月号『山桜』に、小品「童貞記」を寄稿、以後同誌に作品を次々と発表。八月、別れた妻の死を知る。八月一一日、川端康成への最初の手紙を書く。九月、「一週間」などの執筆にとりかかる。また、上京した父と面会。一〇月、川端より好意的な返書を受け取る。一一月六日、熱瘤のため、重病室に入室(一五日間)。一二月八日、院内の山桜出版部に文選工として就職。

昭和一〇年(一九三五) 二一歳

一月三一日、入院後はじめての外泊に東京へ行く。二月、東條耿一、麓花冷、於泉信夫ら四名と「文学サークル」を結成。五月号『山桜』で「文学サークル結成記念」の特集、掌編「白痴」を寄稿。五月一二日、「間木老人」の原稿を川端に送る。五月三〇日、山桜出版部を辞める。六月、「晩秋」の原稿を書きはじめる(未完)。一〇月、「最初の一夜」の執筆をはじめる。一一月一四日、「間木老人」(筆名秩父號一)を掲載した『文學界』一一月号が手元に届く。一二月一五日、「最初の一夜」を清書し、川端に送る。

昭和一一年(一九三六) 二二歳

二月号「最初の一夜」が川端の手で「いのちの初夜」と改題され『文學界』に掲載、「文學界賞」を受賞。二月五日、東京・本郷の文圃堂を訪れ、式場俊三に会う。その後店員大内の案内で銀座に行き、横光利一、河上徹太郎と対面。二月六日、文圃堂の伊藤近三の案内で鎌倉へ行き、駅前の蕎麦屋にて川端、林房雄と最初で最後の面会を果たす。同日帰院。六月一〇日、二週間の外出許可を取り、文圃堂に文學界賞賞金の残りをもらいに行くが、かなわず。六月一六日、神戸から徳島行の汽船に乗り、生前最後の帰郷、父と会う。六月二三日、三笠書房版『トルストイ全集』をたずさえ帰院。六月二八日、昭和一一年度下半期予定表を机に貼りつける。夏、体調を崩し体力が衰えるなか、「危機」を執筆(川端が「癩院受胎」と改題)。また、川端より作品集出版の話を知らされる。九月号「眼帯記」(『文學界』)。一〇月号「癩院記録」(『改造』)。一〇月、中村光夫の文芸時評を契機に彼との文通が始まる。一二月号「癩家族」(『文藝春秋』)、「続癩院記録」(『改造』)。一二月三日、生前唯一の作品集『いのちの初夜』を創元社より出版。初刷二千五百部、一円五十銭。一二月三〇日、激しい神経痛に襲われ、年明けにかけて床につく。

昭和一二年(一九三七) 二三歳

一月一七日、精神科医、式場隆三郎と面会。一月二九日、七号病室(重病室)に入室、翌月一四日まで出られず。三月六日、一時帰省の名目で外出、神戸まで行くがついに帰省せず神戸、大阪、東京を放浪。四月号「重病室日誌」(『文學界』)。四月一三日、「道化芝居」の原稿が完成。検閲、推敲ののち川端に送る。六月半ば、腸結核が悪化し、著しく体調を崩しはじめる。七月五日、川端に体調の悪化を知らせる書簡をしたためる。夏、最後の小説「望郷歌」を執筆。九月二五日、九号病室(重病室)に入室。翌月はじめまで日記原稿を執筆。一一月初旬、光岡に求婚の仲介をたのむ。一一月半ば、東條、民雄の担当医より彼の深刻な病状を知らされる。一一月二六日、創元社東京支店長、小林茂に宛てて見舞いの返礼、これが最後の手紙となる。一二月号「続重病室日誌」(『文學界』)、「望郷歌」(『文藝春秋』)。一二月五日、早暁、九号病室にて息を引きとる。午後、川端が小林茂とともに弔問、亡骸と友人らに面会。一二月六日、父が来院し、遺骨を持ち帰る。

昭和一三年(一九三八)

一月、『いのちの初夜』一四版を重ねる。二月号 光岡「北條民雄の人と生活」、東條「臨終記」(『文學界』)。四月号「吹雪の産声」(『文學界』)、「道化芝居」(『中央公論』)。四月、川端康成編纂『北條民雄全集』上巻、創元社より刊行。六月、『全集』下巻刊行。

▼北條民雄『いのちの初夜』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322009000317/

KADOKAWA カドブン
2021年02月22日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク