『血湧き肉躍る任侠映画』
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仁侠映画から解き明かす「仁義なき」映画界
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
九〇〇本を超える仁侠映画を観た著者の記憶と記録が詰まった五六〇頁を超える大部の一巻である。
これだけの大作となると、書評はどうしても一つの視座を設けざるを得ない。私が設けた視座は、やはり仁侠映画ブームの中でこの種の映画を最も大量につくり続けた東映作品を軸としたそれである。
そしてその際、どうしても必要となるのは、著者の名著『殺陣 チャンバラ映画史』(現代教養文庫)の中のいくつかの主張である。それは東映映画のスタンスを概略的に捉えた、ステロタイプな時代劇を作り続けてファンから見離され、仁侠映画に切り換え、十年たって飽かれると実録ものやポルノに転じるが、映画の質は落ちるばかりであるという箇所がまず一点。そして、股旅ものは時代劇で遠い世界のこと、着流しやくざは隣り合わせ、現代やくざは日常生活の現実のできごとであるという箇所。今回の著作では全体の三割が次郎長ものや股旅ものに充てられ、あとの二つと差別化されている。さらにこの二冊の著作を通して、高倉健の代表的シリーズの最終作「昭和残侠伝 破れ傘」の封切りの二週間後に「仁義なき戦い」がスタート、これで本格仁侠映画は終焉し、実録もの路線に火がつくとする指摘の三つである。
要するに、東映時代劇は他社から引き抜いたスター鶴田浩二、若山富三郎らを活かすことが出来ずに飽かれ、彼らを活かしたのが仁侠路線だった。そして実録ものでは、仁侠路線でも十分ではなかった菅原文太がスターダムにのしあがり、東映子飼いの高倉、そして前述の鶴田、若山らはハジキ出された。そこには、利益のみを追求し、スターもファンも知らぬ顔の態度なりふりかまわぬ、やくざよりやくざな映画界の一端がかいま見えるのみである。仁侠映画とはそこに咲いた一輪の徒花だったのだろうか。本書をひもときながらそう思う。