第36回太宰治賞受賞作『空芯手帳』著者・八木詠美さんインタビュー

インタビュー

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空芯手帳

『空芯手帳』

著者
八木 詠美 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784480804990
発売日
2020/12/02
価格
1,540円(税込)

書籍情報:openBD

第36回太宰治賞受賞作『空芯手帳』著者・八木詠美さんインタビュー

[文] カドブン

太宰治賞受賞のデビュー作にしてすでに欧米やアジア、9カ国で翻訳が決まったことでも話題の『空芯手帳』。誰もが生きづらさを抱える“沼”のような時代に静かなさざ波をたてる新たな物語の魅力に迫ります。

――反抗とも呼べない、ちょっとした実験のつもりだった――紙管会社に勤める女性社員の柴田は、コーヒーカップの片付けを当たり前のように言いつけられたある日、偽装妊娠を宣言する。暗黙のうちに共有される役割期待を軽やかにスルーしながら周囲を観察する柴田の視線は、静かな毒を孕む。

八木:ジェンダー的な意識で書いたわけではなく、最初は、ほんの悪戯、出来心みたいなものだったんです。ただ、現実世界、このままだとしんどいな、という思いはありました。ちょうど、杉田水脈議員の「生産性」という発言が炎上したりしていた時でもあり、まわりにも、結婚したら子供をつくるもの、と悪意なく捉えて他人にもそれを求める人が多いことには違和感があった。無意識が一番怖い。だったら、生身の子供を産むかわりに、自分は小説を産んでやろう、と不思議とコンセプトが固まっていきました。

――作中にも現実へのふとした違和感がさざ波のように埋め込まれる。

八木:怒りには感情の反射神経が必要だから、理不尽な目にあった時、その場で咄嗟に声をあげることってなかなか難しい。書いているうちに気づく文章の乗り物が「小説」なんじゃないかと思うんです。

――尾崎翠や今村夏子、松田青子などの小説を愛読してきたという。

八木:言葉がおもしろくて、それだけで読み進めてしまうようなもの、あらすじでは説明できない、そこからすり抜けていくような変な設定が好きですね。小説は、批評のように明確な論理展開があるわけでもなく、短い言葉でぱっと捉えるコピーライティングとも違う。すごく効率が悪いけれど、そのぶん何を書いても自由。仕事で理不尽なことやつらいことがあったりしても、小説を書いている時間だけは、誰からも侵されないし、いくら嘘をついてもいい。現実の仕事では、わかりやすさや結論のはっきりしたことを求められがちなので、逆に小説の自由さが新鮮で面白い。私自身にとっても、嘘=小説を紡ぐ時間が、現実の支えになっていたところがあります。

――主人公は言う。

「自分だけの場所を、嘘でもいいから持っておくの。人が一人入れるくらいのちょっとした大きさの嘘でいいから。その嘘を胸の中に持って唱え続けていられたら、案外別のどこかに連れ出してくれるかもしれないよ。その間に自分も世界も少しくらい変わっているかもしれないし」

 そして主人公の想念の中でも、次第に「妊娠」の虚実が入り乱れてゆく。同僚に生まれてくる子供の名前を問われ、こう答える。

「決めました、名前。柴田空人にします。空っぽのからにひとで、そらと」

八木:潜在的なイメージがあって、 結末を考えないで書き進めていったので、モチーフやタイトルも、伏線というよりは、書きながら、ああそうか、と回収していく感じです。パンパースのウェブサイトで、妊娠の週数による胎内の赤ちゃんの様子を教えてくれるので、それを眺めながら、このときまでにはこれをしなくちゃ、と考えていきました。

――現実と辻褄を合わせなければならない切迫感や罪悪感が、主人公には微塵も感じられない。どこまでも醒めている。ある種の異化効果で、読者は気づかされるのだ。ひょっとしたら、世間の「普通」に合わせてチューニングし続けているうちに、本当に自分が欲しいものが何だったかも忘れてしまっているのではないかと。同時代の生きづらさ、モヤモヤを言語化し、可視化する本書は、新人賞のデビュー作としては異例なことに、アメリカ、ドイツ、フランス、中韓などすでに世界9カ国での翻訳出版が決まったという。この先、世界の読者に、この物語がどう受容されていくのかもまた興味深い。

八木:自分が生活している範囲では出会えない人と本で繋がれる。特にコロナ禍で、物理的に海外に移動することができない今、本のほうが先に行ってくれるというのは、信じられないくらい幸せなこと。次作も構想中で、本書は一人称で淡々と語っているので、もう少し動きのあるもの、他人と関わって、その結果、自分自身も変わっていく、そんな物語を書いてみたいと思っています。

取材・文:小説 野性時代編集部 

KADOKAWA カドブン
2021年03月11日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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