ロシア属国下の「日本」で潜入工作員になった男の運命

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帝国の弔砲 = Траурный салют

『帝国の弔砲 = Траурный салют』

著者
佐々木, 譲, 1950-
出版社
文藝春秋
ISBN
9784163913315
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

ロシア属国下の「日本」で潜入工作員になった男の運命

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 一人の男が眠りから目覚める。

 佐々木譲『帝国の弔砲』は、そんな場面から始まる冒険小説である。プロローグの舞台となるのは、東京・隅田川付近だ。街の片隅で焼玉機関の整備工として働いている男が、父の危篤を告げる電報を受け取る。その報せは、彼に行動を起こさせるための暗号なのである。連絡係から告げられた任務は、〈グーシ〉と呼ばれる標的の暗殺だった。

 男の名は小條登志矢(こじょうとしや)という。だが、コジョウ・ハリトーン・ニキータヴィッチというもう一つの名前がある。ロシア沿海州に開拓民として入植した、日本人の両親から生まれたためである。少年時代にロシアと両親の祖国との間で戦争が勃発し、日系移民は収容所生活を余儀なくされる。登志矢の人生は、そこから変転を極めていくのだ。鉄道員を目指して工科学校に進んだ彼は、なぜ潜入工作員として日本に渡ることになるのか。その謎が、読者にページをめくらせる原動力となる。

 満洲国についての言及があるので、昭和初期の物語であることがわかる。だが作中で描かれるのは史実とは少し異なる、改変された歴史なのである。この時間軸では大津事件に端を発した対露戦争で日本は敗北し、属国になってしまっている。

 二〇一九年に発表された『抵抗都市』は、ロシア統治下の東京を舞台とする警察小説だった。本作はそれと同じ設定を用いつつも少し降(くだ)り、第一次世界大戦からロシア革命へとつながる時代の物語だ。すべてが覆されていく動乱の中では、個人の尊厳はたやすく踏みにじられる。登志矢の味わう辛苦は重く、そのやるせない思いが読者にも伝わってくる。

 小條一家が体験する収容所生活は、第二次世界大戦下で在米日系人が受けた仕打ちと重なり合う。作中で描かれるのは架空の出来事だが、そこから現実を照射するのが佐々木の狙いなのだ。自らの運命に抗う男の物語は、だからこそ胸を打つ。

新潮社 週刊新潮
2021年3月18日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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