『法学を学ぶのはなぜ?』vs「法学」

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法学を学ぶのはなぜ?

『法学を学ぶのはなぜ?』

著者
森田 果 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/法律
ISBN
9784641126206
発売日
2020/11/02
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『法学を学ぶのはなぜ?』vs「法学」

[レビュアー] 小粥太郎(東京大学教授)

1 『法学を学ぶのはなぜ?』(2020)の著者である森田果教授は、東北大学の法学部・法学研究科に所属し、商法関係の講義を担当している。世間的には商法の教授といえるだろう。ところが森田教授は、商法以外にも、法と経済学、実証分析系の演習等を開講しており、ホームページ上では、「専攻 = 最近不明 / Commercial and Corporate Law」と表明している(http://www.law.tohoku.ac.jp/~hatsuru/profile.html 2020年11月8日閲覧)。私も、その著作に接し、また、かつて仙台で同僚として過ごした経験を通じて、森田教授は商法学者ではなくて、経済学者なのかもしれないと感じていた。

 ところが、である。『法学を学ぶのはなぜ?』を手にとると、ソデ(本のカバーを内側に折り返した部分)の著者近影に添えられた、「法学以外の社会科学やデータサイエンス(統計学)に浮気し続けている法学者」(傍点引用者)という文字列が目に飛び込んできた。なんと/当然?、森田教授は、「法学者」ということになっている。しかも、法学以外の社会科学や統計学は浮気相手であって、法学が本命と読める。これまでの森田教授による日本の実定法学に対する容赦ない批判の数々も、法学を愛していたがゆえのことだったのか……。

 さらに、である。ソデには「法学者」とあり、「商法学者」とは書かれていない。法学の世界には、民法、刑法など、○○法の専門家、あるいは、法哲学、法社会学など、法○○の専門家はたくさんいるが、法学一般の専門家というのはあまりみかけない。仮に「法学に詳しい××教授」というプロフィールがあったとすれば、怪しい雰囲気が立ち上る。しかし、そのような「法学者」という肩書きも、『法学を学ぶのはなぜ?』というタイトルの本の著者紹介としては非常に魅力がある。その理由は、私が置かれてきた状況とも関係している。

2 法学教師として暮らしていると、ときおり、小一時間で、法学がどのような学問分野であるのかを話せ、という課題が与えられる。大学が開催するオープンキャンパスで法学部の模擬講義を担当したり、各地の高等学校からの要請で出前授業をする機会があるからである。私の場合、こうした機会に何を話すべきかは非常に悩ましかった。日頃の教育・研究対象である民法・民法学から少し距離を置いて、法学とは何か、これを小一時間で伝えるとしたらどうすればよいかを考えさせられたからである。

 同様の問題は、大学の学部1、2年生相手に、「法学」、「法学入門」のような講義を担当する場合にも生ずる。受講者が、法学部生であれば、これから勉強する法学の「入門」になるようなことを話したいし、法学部生以外であれば、隣の学部で教育・研究されている法学とはどのようなものか理解した上で社会に旅立ってほしいと思う。私の場合、日頃は、数個に分割された民法・民法学の各部分の講義――毎年あるいは数年毎に担当が変わり、いずれ、民法全体の講義経験を獲得することになる――をこなすことに手一杯で、なかなか法学一般についてまで考えを巡らせることが難しかった。

 このような悩みを抱えてきた私にとって、導きの星として記憶に刻まれた書物は、水泳経験のない学生をいきなり水の中に投げ込んで泳がせる風情の法学入門(田中英夫『実定法学入門〔第3版〕』〔1974〕)であり、教師の情熱で火傷をしそうな法学入門(三ヶ月章『法学入門』〔1982〕)であった。いずれも、著者の専門分野――アメリカ法/民事訴訟法――を突き抜けた先にある法学そのものを、体得させる/描ききろうとする気迫に溢れる。とはいえ、昭和の名著のアプローチが21世紀生まれの聞き手に相応しいのかはよくわからない。法学一般として語るべきコンテンツは何か、そして、素材(具体例)を含めた聞き手へのアプローチをどうすべきかはかなり難しい。これが私の状況であった。

3 この難問に対する単純明快な解答を見せてくれたのが、森田教授の『法学を学ぶのはなぜ?』である(以下、同書については頁数のみで引用する)。

 森田教授のいう法ルールは、人間、そして社会を動かす道具である。もう少し具体的にみるなら、何らかの目的達成のために、自然言語によって提示される積極消極のインセンティブであって、これに反応する人々の行為の結果、目的に適合的な社会の変化がもたらされるものとでもいえようか。一定の行為に損害賠償や刑罰を命じる法律も、(消極の)インセンティブの一種ということになる。インセンティブに反応する人間の行動法則を的確に把握できれば、目的実現のために効果的な法ルールを設定できるし、その理解が不十分だと、法ルールを設定しても目的が達成できなかったり、意図しない結果が生ずる。これらが、随所でキャッチィな具体例――NY市の駐車禁止違反(6頁)、イスラエルの保育園の延長保育(23頁)、定期試験の病欠ルール(92頁)等々――とともに語られる。

 また、ルール設定の目的は、人為的に決められるものであって評価が分かれうること(42頁)、複数の目的が設定され、それらの調整が必要になることを指摘するだけでなく、調整を実演してもみせる(92―99頁)。伝統的な法・法学が格闘してきた、対立する価値の調整という問題が、流麗簡潔に――ファーストベストよりもセカンドベストのなかで最善のものを探すところに関心を示す(103頁)のは老練な弁護士のようだ――捌かれている。

 さらに驚くのは、法学とは何かを読者に伝えるために、数多の副次的項目――高校生大学生の関心を惹きそう――が用意され、それぞれにシンプルな説明が与えられていることである。いくつか例をあげると、法ルールが自然言語で作成される意義(60―61頁)、法の解釈とはどのような作業であるか(61―70頁)、法学の勉強方法(74―75頁)、司法試験問題(科目は商法ではなく民法!)の解法(77―84頁)、他の学問領域と比べた法学の特性(84―87頁、111―116頁)、法学の「お作法」(117―119頁)等々。とくに「お作法」については、あまりに単純に説明されているために文句の一つも言いたくなるところだが、一番簡単に説明するとしたらこういうことになりそうだと納得してしまった。この小さな本に、法学のエッセンスのほとんどすべてが、盛り込まれているような気がしてくる。

4 というわけで、『法学を学ぶのはなぜ?』を読めば、さらりと、法学がどのような学問であるのかを理解することができそうである。当然、高校生や専攻未定の大学生の進路選択に役立つ(弁護士の仕事[75頁]、企業法務の仕事[90頁]についてまで書いてある)。また、自分で周囲を動かし、社会を変えていこうとする人々に対し、その方法を示すことによって、勇気を与える本にもなるだろう。さらに、市井の人々も、本書を読むことによって法学の正体を知り、法と法学に対する漠たる不安感のようなものから解放されるのではないか。それほどに、森田教授は法学を明快に語り切った。

 しかし、森田教授自身も認めるとおり、ここで語られた法学は、有力ではあるが、一つの見方に基づくものである(153頁)。それゆえにこそ、本書のPART2には「先輩からの10のメッセージ」として、10人(弁護士一人、中高社会科教員一人のほかは「法学者」?)の多様なエッセイが添えられているのだろう。

 実は、私自身の本書の読後感は、森田教授ならではの素晴らしい法学入門だけれども、何かが違う、というものだった。その違和感を説明する仮説は、本書が、法と法学に通暁する経済学者――法学のアウトサイダー――による、法と法学を対象とする経済学だというものである(本書の手法を経済学と呼ぶことは許されよう[112頁])。

 森田教授の法学は、法学を挑発する。アウトサイダーは、立法論と解釈論に基本的な「違いがない」という(111頁。同旨を説くのは、田中亘「商法学における法解釈の方法」民商154巻1号〔2018〕36頁)が、インサイダーにとって、立法論と解釈論の区別は基本中の基本のはずだった。アウトサイダーの関心は、法ルールによる人間行動の変化(その前提となる行動法則)、その集積がもたらす結果に向けられているようにみえるが、インサイダーは、正解のない社会問題に対する解決案を相対的には正しいものと受け止めてもらうための努力(≒手続?)をしてきたのではないか(この点につき、得津晶「カオナシの民法学」東北ローレビュー7号〔2020〕170頁)。また、アウトサイダーが想定する人間は、インセンティブに反応する受動的存在――「安藤的新派像」(安藤馨=大屋雄裕『法哲学と法哲学の対話』〔2017〕170―171頁[大屋])さえ想起させる――のようだが、インサイダーが想定する人間は、依然として、フィクショナルな自由意思をベースに自らの行動を自由に決定し、その結果について責任を引き受ける主体的?個人ではないか。さらに、法学にディシプリンがないという分析(112―114頁)も痛烈である。少なくとも法実務の世界では、外国語の修得や職人芸におけるようなディシプリン――科学的ではないのかもしれないからむしろスキル?――を想定できそうであり、地続きの法学にも、それなりの何か――法の賢慮?――があるだろうか。

5 今回、『法学を学ぶのはなぜ?』において、アウトサイダーが法学の姿を描き出したと受け止めるなら、次は、この成果をふまえつつ、インサイダーの視点をヨリ意識した法学のスケッチが現れるべきなのだろう。

有斐閣 書斎の窓
2021年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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