問い方のアップグレード――『問いからはじめる教育史』(有斐閣ストゥディア)

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問いからはじめる教育史

『問いからはじめる教育史』

著者
岩下 誠 [著]/三時 眞貴子 [著]/倉石 一郎 [著]/姉川 雄大 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/教育
ISBN
9784641150805
発売日
2020/10/20
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

問い方のアップグレード――『問いからはじめる教育史』(有斐閣ストゥディア)

[レビュアー] 金澤周作(京都大学教授)

 教育をめぐるさまざまな喫緊の課題について決定版的な「答え」が今すぐ欲しい、という読者には向かないだろう。むしろ、それらしい立派な答えより、良い問いに出会う方がよほど素晴らしいのだと強く訴えかけるのが本書である。教育問題にどのようにアプローチしたらよいのか、すなわち、どのように問いかけたらよいのか、その問い方を鍛えるための練習問題集が本書である。みかけの立派な答えを当意即妙に暗唱する人であるよりも、良い問いを愚直に反芻する人たれ――。評者はこういうメッセージを受け取り、すっかり納得してしまった。ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思い、書評を引き受けた次第である。

 4人の緊密な共同作業の賜物である、序章と4部に分かれた全10章、および終章からなる内容を、なにはともあれ駆け足で概観したい。扱われている事例は欧米諸国と日本の歴史を中心に広くとられている。その具体的エピソードの多彩さ、奇想天外さ、面白さ、重さ、すわりの悪さが歴史学的アプローチならではの魅力なのだが、本評ではいちいち触れない。それは、実際に読む人の特典である。

 序章「教育史って何の役に立つの?」は、近視眼的な教育政策およびそれと共犯関係にある教育学への義憤をにじませて、良い問いをもって歴史をきちんと見ること、つまり、具体的かつ多様な過去の諸事例をふまえて今の教育を考えることの大切さに注意を促す。しっかり教育の歴史を振り返ることができれば、現在の常識――もっともらしい正解や、近代教育に対する安易な批判など――を相対化できるし、イデオロギーに引きずられないし、教育にできることとできないことが見えてくる。では、教育の歴史をどのように整理して見つめればよいのか。それを本編は提示する。

 第1部「子どもを育てる/大人になる」は、「子ども」、「大人」、「育てる」とはそもそも何なのかを考えさせるパートである。第1章「子どもはいつ大人になった?」は、名高いフィリップ・アリエスの衝撃的な議論――ヨーロッパ中世に子どもはいなかった――を出発点に置き、そのおかげで活性化し豊かな成果を生み出してきた子どもの歴史をめぐる学説史を丁寧にフォローして、それぞれの長短を指摘する。そして、19世紀末以降に「子ども」認識に大きな転換があったことは認めつつも、この問いに安直な答えはないと確認する。そういう答えをあたかも当然の真理のごとく前提にして語る人やメディアを疑え、ということでもある。

 第2章「誰が子どもを養育するのか」は、日本とイギリスの過去の例を引き、一見マージナルな存在のように思われる捨て子や浮浪児の養育という問題に光をあてる。かれらの生きる具体的な時空間の多元性を丹念におさえていくことで、「親が育てる」だけではない実態、そして、粗雑に「社会」と括るのでは掴み切れないさまざまな養育主体の存在(の可能性)に気づかせてくれる。

 第2部「知識を身につける/使う」は、教育が一翼を担っている「知識」、「知識の獲得」、「知識の活用」というごく当たり前に見えることがらを、歴史をさかのぼり、根本から問い直している。第3章「人々はなぜ知識を求めたのか」は、知識とその獲得目的の多義性(権力手段、抵抗手段、自己実現、真理究明、頑迷の素、進歩、退歩)を読者につきつける。そして、情報が知識に加工され、文字を通じて蓄積し、書物や翻訳などを通じて伝搬し、大学などの拠点が形成される長い人間の歴史を眺めて、最後にヨーロッパ近世の「学問の共和国」の盛衰を語る。今を生きる自分がふと「知識」を得たいと思ったとき、そう思う理由、そう思わせる状況の独特さを反省させてくれる。

 第4章「人々は読み書き能力(リテラシー)をどのように使ったか」は、民衆のリテラシーを問うことは「生き方のありよう」を問うことだとの力強い言明が印象的である。ヨーロッパにおいて、当初リテラシーとは俗語と区別されるラテン語のそれを指していたところから、次第に俗語リテラシーが伸び、その俗語が国語化していくことで、近代化、強制と自律、排除と包摂の諸問題が生じるが、本章では歴史学の知見を踏まえて一筋縄にはいかない実態を指摘する。たとえば、国語の識字率の高さが経済成長をもたらすかのような俗説は、実証研究に照らして神話であると喝破され(むしろ経済成長の結果としての識字率上昇は認められる)、国語リテラシーは労働者が渇望する知識であった一方で、かれらを巧みに動員する手段となった点も指摘される。国語を話せない人を排除する論理も生み出された。国語リテラシーを無条件に良い、とするのはナイーブであることが良く分かる。

 第5章「教育は働くこととどのようにかかわってきたか」は、子ども期にかかわる「働くこと」に焦点を合わせて、次第に良くなったわけでも昔の方が良かったわけでもない、職業教育の歴史的な系譜をたどる。中世以来の徒弟制度による訓練と搾取、チャリティとしての(不十分な)実地訓練を経て、徒弟制度に取って代わった教育資格と職業資格の近代にも、包摂と排除は組み込まれていた。とりわけ女性は、階級的、ジェンダー的に特定の職業への適性を割り当てられたのだが、現在にも横行する「教職は聖職」というイデオロギーの下で放置される教師の劣悪な待遇の問題にも通底する、近代社会の構造的問題の在り処を指し示している。

 第3部「学校を創る/学校に行く」は、主要な教育の場とされる「学校」を歴史学的に再検討する。第6章「公教育制度はいつ、どのようにして創られたのか」では、現在学校で行われている「次世代の再生産」が、歴史的に必ず教育という形をとったわけではないことを踏まえている。それゆえにこそ、公教育というプロジェクトの新しさと壮大さは際立つ。近世には、公教育の萌芽として、官(お上)ないし民間主導の社会的紀律化のベクトルが見出される。次に、19世紀の西欧における、中央教育行政が無償(ただし教育費がいらなくなるわけではない)で提供する公教育の導入をめぐる学説史――正統学説(人道主義的恩恵)、修正学説(資本主義的要請)、修正学説への批判、新制度学派(象徴的価値)――が流れるように解説され、読む者は頭の中のキャンバスを四方八方に引っ張られるかの如くである。他方で、公教育とは逆向きのベクトルを有する日本の明治時代の「学区」の自律性や「われらが学校」という意識の強さ、そして非正規教育機関の重要性にも適切な言及がなされていて、全体として、公教育が良いとか悪いという話でもない、実に興味深い複雑さが浮かび上がってくるのである。

 第7章「学校は〈子どもが集まり勉強する場所〉なのか」は、学校の通常のイメージから漏れ落ちる重要な役割を、歴史の事例から説明する。草の根の力と行政の巧みさを示す京都の番組小学校のエピソードや巨大文化プラントの実験場と化したアメリカのゲーリー・スクールの例は、学校が「コミュニティ」としても機能し得ることを示す。また、教師と生徒以外の「バイプレイヤー」にも目を向けると、制服や髪形、給食や保健室といった「装・食・住・癒」の側面の重要性も分かる。そして、1920年代のアメリカの精神衛生運動とイギリスのフリー・スクール運動からは、学校が端的に「居場所」であることの価値も見えてくる。

 第4部「教育を変える/社会を変える」は、教育をとりまく政治的、経済的なコンテクストを見据える必要性を熱く説く。第8章「教育は人々を「市民」にしたか」は、近代世界システムが生み出した資本主義的自由主義社会は、理性的な市民を育成しなくてはならなかったと論じる。自由主義社会は市民的公共圏と不可分の関係にある。つまり一定の文化資本を有する市民、すなわち主として男性白人中産階級の規範によって編成されているのだ。この社会における教育も同様で、初等から高等教育に至るまで、彼らにとって都合の良い「市民」を再生産する目的に資した。そして、この枠組みに入らないと目された貧しい労働者階級のうちの一部は、「社会問題」とみなされ、道徳教育の対象となり、さらに人種的、ジェンダー的、さらには本国―植民地的な種類分け(排除)も遂行された。こうして結局、白人男性中心の自由主義社会は正のフィードバックで強化され、自然化されたのであった。教育は市民と非市民を同時に構造的に生み出してきたのである。

 第9章「教育は人々を「国民」にしたか」は、前章と文脈を共通し、現象としても相似形をなしている。国民語(標準語)が構築され、その言語を話す人々に販売する商品あるいは教材としての「伝統文化」が発明され、それらを公教育で普及させながら、(西欧モデルの)「国民」を創り、同時に「非国民」を創り、難民やマイノリティを創り、自由主義的な家族イデオロギーに沿って、たとえば第2次大戦後の子どもの再国民化が実践された。非常に強力なナショナリズム的なもの、そして国民史的な語りに対して、立ち戻り不能のクエスチョンマークを付ける章である。

 第10章「教育は貧困・差別・排除とどのように闘ってきたか」は、資本主義、ナショナリズム、帝国主義という強力な構造を背景に持つ公権力や社会的差別に対して、民衆の戦いとしての教育獲得の運動を描く。被差別部落の人々や、朝鮮人、アメリカ黒人の闘争の例を紹介しながら、近代社会が提供する建前としての平等の裏で温存された構造的差別の根深さと、それを一時でも無効化できた過去の事例の持つ「夢」の価値が再確認される。

 終章「教育史って何の役に立つの? 再び」では、ここまで通読してきた読者を迎え入れて、著者4人が共有する現代的な問題意識、すなわち、教育に作用する新自由主義と新保守主義の弊害――一見リベラルな諸価値と親和的なので暴きにくい――を鋭く剔抉し、生存のための教育を謳う。しかし、はっきりした解決策は与えない。それが本書の「答え」なのだ。「どうか結論を急がず、できるだけ遠回りして物事を考えてください」という、現今の時勢下では共感されにくい切なる願いは、必ずや読者の腑に落ち、聞き届けられると思う。

 本書は細やかな工夫に満ちている。各章扉の印象に残る図版とキャプション、難解な専門用語に逃げない平易な語り口と丁寧な説明、学説史への敬意を持った態度、(本書で批判されるタイプのアクティブ・ラーニングとは違い)決まった答えに誘い込まない度量、そして何より、各章間の緊密な相互参照指示。こうして本書は、たんに4人の論考を集めたものではなく、したがって、章の間の見解の相違を無責任に放置したものでなく、熟議を重ねて継ぎ目のないように作り込まれた、文字通りの「共著」になった。そのため、どこから読んでもいい作りにはなっていない。序章と終章だけを読んで怒る大人がいることは容易に想像がつくので予め言っておくが、つまみ食いはお勧めしない。最初から、順を追って読み進めることによってはじめて(もちろんすべてに同意しなくてもよいのだが)、4人が連れていきたい地点からの眺望を得ることができる。その眺望を要約するなら、このようなものだろうか。各章タイトルの疑問文に対しては、「イエス&ノー」、ないしは「回答の仕方は複数」となる。そして、問いそのものがイデオロギー性を帯びている可能性を意識しなければならない。まさしく「遠回り」な態度で、批判的にみる人もあるだろうが、これこそが歴史学的な問いの効用だと評者は思う。4人が狙っている通り、本書は、既存の教育像や教育学界に大きな揺さぶりをかけ、若い読者に現状に立ち向かう勇気と、良い問いという無限に増やせる武器を持つ重要性を伝えてくれるだろう。

有斐閣 書斎の窓
2021年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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