あさのあつこ『花下に舞う』刊行記念、 「弥勒」シリーズの魅力に迫る!! 大矢博子

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花下に舞う

『花下に舞う』

著者
あさの, あつこ, 1954-
出版社
光文社
ISBN
9784334913939
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

あさのあつこ『花下に舞う』刊行記念、 「弥勒」シリーズの魅力に迫る!!

[レビュアー] 大矢博子(書評家)

初の時代小説『弥勒の月』から15年、江戸の闇と人間に迫る物語は、ついに十作目を迎えた。

切れ者の同心と元暗殺者の商人。男二人の張り詰めた対峙に、私たちは魅了され続けてきた。

待望の新作刊行のこの機会に、「弥勒」の大ファンだという大矢博子さんに、

シリーズの魅力について寄稿してもらった。

 ***

 二〇〇六年の『弥勒(みろく)の月』刊行から十五年。

 定町廻り同心の木暮信次郎(こぐれしんじろう)、小間物屋の主・遠野屋清之介(とおのやせいのすけ)、岡っ引の伊佐治(いさじ)を巡るこのシリーズも、三月刊行の『花下(かか)に舞う』でついに十作目となる。

 この稿を書くにあたってあらためて第一作から読み直してみたが、すでに何度も読んで筋も結末もわかっているのに、まったく飽きることなくぐいぐい読まされてしまった。何度読んでもその度に物語の世界に深く嵌(は)まり込んでしまう。搦(から)めとられてしまう。抜け出せなくなる。すさまじい吸引力だ。

 このシリーズの何がそれほどまでに読者を引きつけ、離さないのか。

 各巻の捕物帳としての筋立てがよくできているのはもちろんだ。登場人物それぞれが持つ個性が際立っているのも言うまでもない。つまり、物語としておもしろい。

 だが、それだけではない。本シリーズが読者を掴(つか)んで離さない理由―それは十巻費やしてもなお解けぬ〈謎〉、解けると思えばするりと手を逃れ、読者のさまざまな想像を掻(か)き立て、行き着く先を知ることを望んでやまない〈謎〉の存在ゆえだ。

 木暮信次郎と遠野屋清之介。その〈謎〉の幹たるふたりである。

 まず、物語の設定を紹介しておこう。

 尾上町(おのえちょう)の親分と呼ばれる伊佐治は、先代の定町廻り同心・木暮右衛門(うえもん)から十手(じって)を預かったベテランの岡っ引だ。右衛門を尊敬していた伊佐治は十数年前に右衛門が亡くなってからも、あとを継いだ息子の木暮信次郎の手下(てか)として働き続けている。

 ある日、橋の上から身投げしたと思(おぼ)しき女性の水死体が上がり、それが小間物問屋・遠野屋の若女将(おかみ)おりんであることが判明した。入り婿(むこ)である夫の清之介は、妻が自殺などするはずがないと信次郎に訴える。だがいちばん怪しいのがその清之介で……というのが第一作『弥勒の月』の導入部だ。

 これは第一作で明かされることなのでここに書いてしまうが、遠野屋清之介は元武士で、とある藩の重臣の息子だった。しかし正室の子でないこととその剣の腕から、父に暗殺者として仕込まれる。言われるままに父の政敵を殺し続けた清之介だったが、父の暗部を担(にな)うその生活に疑問を抱き、兄の助けもあって江戸に出奔(しゅっぽん)。そこでおりんと出会い、武士の身分を捨てて商人として生きる決意をしたのである。

 そんな事情を明確には知らぬまでも、木暮信次郎は清之介の闇の部分をいち早く見抜き、どうやらそれがおもしろいらしく、やたらと清之介にからんでくるようになる。逆に清之介が商人として生き直そうとしているのを応援したい伊佐治は、信次郎と清之介の間で緩衝材(かんしょうざい)となる。そして第二作以降も信次郎と伊佐治が出合う事件はなぜか遠野屋とかかわることが多く―殺人事件の被害者のひとりが遠野屋の奉公人と幼馴染(おさななじみ)だったり、手がかりを読み解くのに小間物屋の知識が必要だったり、遠野屋の客が事件に巻き込まれたり―いつしか信次郎・伊佐治と清之介の間に歪(いびつ)ながらも協力関係が成立するようになるのである。

 つまり本シリーズの構成は、同心・岡っ引というペアに、商人としての才と財と人脈を持ち、元暗殺者としてのとびきりの剣の腕を持つ清之介が加わった、トリオ捕物帳ということになる。

 が。それは外枠、輪郭の話だ。その芯には、木暮信次郎と遠野屋清之介にまつわる、読者を引きつけて離さない〈謎〉がある。

 このふたりは、畢竟(ひっきょう)、どういう人物なのだろう。

 このふたりの関係は、これからどうなるのだろう。

 木暮信次郎。わずかな手がかりも見逃さず、早い段階から事件を見通す目を持つ推理力抜群の同心。口調は乱暴ながら、いつしか相手にすべてを喋(しゃべ)らせてしまう聞き込みの技。だがおよそ人の情というものを解さない(ように見える)。人の迷惑を顧(かえり)みない(ように見える)。傍若無人で手前勝手で、時には清之介にいきなり斬(き)りかかることもあり、遠野屋の使用人からは蛇蝎(だかつ)の如(ごと)く嫌われている。彼を動かすのは正義感でも金でもなく「おもしろい」かどうかだ。そして彼が「おもしろい」と思うのは、人間の本性である。

「人の本性を露(あらわ)にする。後生大事に被っていた仮面を引き剥がす。化粧(けわい)を剥ぎ取って素顔をさらけ出させる。おもしれえじゃねえか」(『地に巣くう』より)

 決して美しいとはいえないであろう本性を見ることに、彼はなぜそれほどこだわるのか。彼が異質や異形を好む様子は随所に登場する。だがそこに何を見出(みいだ)しているのか、それがわからない。そういう彼自身、決して本音を言わないような、決して本性を見せないような、そんな硬い皮を感じる。いや、それともこれがそのまま彼の本性なのか? だとしたらどうしてそんな性分ができあがった? 彼の心にあるものは、いったい何なのか?

 遠野屋清之介。信次郎に比べればだいぶ彼の人となりは明らかになってきた。おりんという女性と出会って過去をきっぱり捨て、商人として生き直した。先代とおりんから託された遠野屋を愛し、新たにできた家族を愛し、使用人たちから慕われ、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)である。商売人として挑戦したいこともある。夢もある。だが、過去が彼を追ってくる。藩が、兄が、当時の闇の者たちが、追ってくる。さらに信次郎に焚(た)きつけられる。おまえの本性は商人なんかじゃない、人斬りだと迫られる。それを否定したくて、否定できると思って耳を塞(ふさ)ぐが、時折胸が騒ぐ。血が蠢(うごめ)く。懸命にかぶった皮を、ようやく身と一体になったと思っていた皮を、信次郎が剥がしにかかる。

 清之介は商人として生きていけるのか。ここまでの九巻は常に過去との戦いだったと言っていい。本人の気持ちは決まっているのに、もう絶対に人は斬らないと心に決めて戦いの場面でも徒手(としゅ)や刀背(みね)打ちで済ませているのに、それでも何かが彼を解き放ってくれない。その何かは何なのか。

 そして何より読者を掴んで離さないのが、このふたりの関係だ。

 友達。仲間。ライバル。敵。どれでもない。既存の言葉で表せない。互いに好きなのか嫌いなのか、認めているのか憎んでいるのか、信じているのかそうでないのか、ともにいたいのか斬りたいのか。そのどれでもなく、そしてまた、そのすべてなのだ。何なのだろう、この関係は。

 問題は、それが当人たちにもわかっていないということだ。このシリーズは多視点を採用しており、木暮の心中が描かれる箇所もあれば、清之介の語りで進む場面もある。つまり、ふたりが相手に何を感じ、自分がどう思っているかも、何度も書かれているのである。それなのにわからない。嫌いだ、とはっきり書かれているかと思えば、会いたいと思っている場面もある。ふたりの間に触れただけで切れそうな冷たく鋭い空気が走ったかと思えば、穏やかに茶を飲むこともある。危機に際して背中を預け合うこともあれば、互いに刃(やいば)を向けたこともある。人望厚い商人と嫌われ者の同心。そんなふたりを、とある市井(しせい)の善良な娘は「似ている」と言った。「まるで兄弟みたい」と―。

 何なのだろう、これは。むしろ恋。いや違う、執着。あるいは、宿命。

 これからこの物語がどこへ向かうのかはわからないが、いつか清之介は信次郎を殺すのではないか、あるいはその逆か、と考えることがある。そして戦慄(せんりつ)することに、私にはその結末がハッピーエンドのようにすら感じられてしまうのだ。そんなことを思わせてしまうほどに、歪で、けれど究極に純粋にも見えるこの関係から目が離せないのである。

 伊佐治という老練(ろうれん)で善良な岡っ引の存在がふたりのバランサーとなり、いざ事件に向かうときには絶妙のチームワークを見せる三人でもある。思わず笑ってしまうような会話が三人で交わされることも珍しくない。どのふたりを組み合わせても名コンビであり、三人揃えば盤石(ばんじゃく)のチームだ。そしてそんな場面は、間違いなく、巻を追うごとに増えてきた。

 できることならこのまま和(なご)やかに、穏やかに、三人で事件を追ってほしいが―まあ、そうはならないんだろうなあなどと思っていたところに、十作目『花下に舞う』を読んで、思わず声が出た。なんと今回は、信次郎の死んだ母親の話なのである。しかも、聞いて驚け、信次郎の性格が母親譲りだったことがわかるのである。えええ、あの性格の母親っていったい……?

 どうですか、気になるでしょう。

 シリーズはここから、もしかしたら信次郎の過去が明かされていくのかもしれない。だとしたら実にワクワクするではないか。物語を貫(つらぬ)く大きな謎、彼らはどういう人間なのかという謎に新たなヒントが与えられるのかもしれないのだから。

 だから弥勒はやめられない、のだ。

光文社 小説宝石
2021年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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