ままならない今を抜け出し、軽やかに生きたいと願うすべての人へ。カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞受賞作『炭酸水と犬』

レビュー

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炭酸水と犬

『炭酸水と犬』

著者
砂村 かいり [著]/宮原 葉月 [イラスト]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041111390
発売日
2021/03/18
価格
1,320円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ままならない今を抜け出し、軽やかに生きたいと願うすべての人へ。カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞受賞作『炭酸水と犬』

[レビュアー] 三田ゆき(書評家)

■ 『炭酸水と犬』砂村かいり著 レビュー

 恋と愛との違いとはなんだろう。たとえば、愛は一度に多くの対象に向けることができるけれど、恋を向けられる対象は、一般的にはひとりだけ、もしくはひとつのような印象がある。ほかにも、「大自然を愛する」とは言っても、「大自然に恋する」とは言わないとか──なんとなく、愛は恋より、対象範囲が広い感じだ。さらに、『炭酸水と犬』(砂村かいり/KADOKAWA)を読了した今、私はこの永遠の命題に、もうひとつの解答を加えられそうな気がしている。すなわち、「愛は大きく見えにくく、恋はきらめきよく目立つ」と。

 物語は、29歳の主人公・由麻の恋人の、衝撃的な告白で幕を開ける。「もうひとり、彼女ができたんだ」。和佐は、食卓で手で顔を覆ってそう言った。

 和佐は、つき合いはじめて9年になる由麻の恋人であるだけでなく、一緒に暮らすようになって4年めの同居人、さらには婚約者でもある人だ。それがなにをどうすれば、そんなことになるというのか。和佐はさらに言い募る。由麻と別れたいわけじゃない、彼女とはキスもセックスもしない、でも週に何度かは逢わせてほしい。自分の心の動きを見守りたいんだと、和佐は言った。由麻の心は、彼の言葉の解釈を拒んだ。だから、涙も出なければ、怒りが湧くこともなかった。ただ「いいよ」とだけ答えたその後の由麻が、これまでと変わりなく社会生活を送れているのは、身に染みついた習慣があるからだ。

 由麻が彼と出会ったのは、大学3年生のときだった。就職活動を前にして、面接でアピールできる特技も資格もない由麻は焦っていた。就活に有利な経験ができればと、子どもの遊びと学びをサポートするボランティア団体に登録したが、そこでリーダーとして活躍していたのが和佐だ。まじめで、表情や仕草にだらけたところがいっさいなく、子どもが好きで自然が好きで、心から楽しんでいる彼は眩しかった。なにも誇れるものがなく、空っぽだった当時の由麻は、瞬く間に恋に落ちていた。

 けれど和佐は、そのボランティア団体のOB会で、「彼女」に出会ってしまったのだという。浮気ひとつしない人ではあるけれど、心変わりなら話は違うのかもしれない。いつまでもこの状態が続けば、彼とは別れることになるのだろうか。それとも、和佐が「彼女」と別れたならば、すべてを許すことができるのか。

 結論を出すこともできず、ふたりの関係が煮詰まってしまったある日、由麻は和佐から、もうひとりの彼女に会ってみるかという提案を受けた。実際に会えば、「うまく言えない今の感じ」が伝わるのではないかと、最近にわかに炭酸水を飲むようになった彼は言う。「いっそ三人で腹を割って話したい」。そう訴える和佐に押されて、由麻はその人と会うことになった──愛犬家であり、天涯孤独だという「彼女」、アサミに。

 自分の生活を省みても、日常という習慣に埋もれているものはいろいろある。返信できずにいるメール、扉を開ければ雪崩を起こすクローゼット、見ないふりをしている面倒な仕事。そんなことを思い起こせば、堂々と二股をかけられていながら、恋人と別れられずにいる由麻を、正面から叱れる人は少ないだろう。

 恋をはじめようとするとき、わたしたちは確実になにかを手にすると思い込んでいる。だから、踏み込むことに躊躇はない。一方で、恋を終わらせるには喪失が伴うと考える。恋人は去り、積み重ねてきた時間は無駄になってしまうように思えるからだ。けれど、なにかをおしまいにすることは、はたして失うばかりなのだろうか。立ち止まって見渡せば、はじまりに置いてきてしまったものが見える。失うことで、新しく手にできるなにかに気づく。それに気がつきさえすれば、わたしたちは、与えられ、捨て、つかみ取って、失って、みずから選んだと思えるものだけを携えて、この先を歩いてゆける。由麻の恋の行く先は、わたしたちにそんなことを教えてくれる。

 第5回カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞を本作含む2作品で同時受賞した著者が贈る、新世代のラブストーリー。ままならない“今”の視点を変えうる、ささやかだけれどドラマティックな恋に浸ってほしい。

文=三田ゆき

■作品紹介

ままならない今を抜け出し、軽やかに生きたいと願うすべての人へ。カクヨムWe...
ままならない今を抜け出し、軽やかに生きたいと願うすべての人へ。カクヨムWe…

炭酸水と犬
著者 砂村 かいり
装画 宮原 葉月
定価: 1,320円(本体1,200円+税)

第5回カクヨムコン〈恋愛部門〉受賞!心をえぐる、新世代のラブストーリー
第5回カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞受賞作!
心のままに、軽やかに。自由に生きたいと思う、すべての人へ。
9年付き合っている同棲中の恋人とは、結婚秒読みのはずだった。
「もうひとり、彼女ができたんだ」
恋人の突然の告白。そして、もうひとりの彼女に引き合わされ、わたしの感情はばらばらになってゆくが――。
WEBで話題。心をえぐる、新世代の等身大ラブストーリー!

https://www.kadokawa.co.jp/product/322011000285

KADOKAWA カドブン
2021年03月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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