ゼロエフ 古川日出男著 講談社

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ゼロエフ

『ゼロエフ』

著者
古川 日出男 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784065227930
発売日
2021/03/05
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

ゼロエフ 古川日出男著 講談社

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

 今回の東京オリンピックは、十年前の東日本大震災からの「復興五輪」の名を掲げている。それがもともと開催されるはずだった昨年の夏に、福島県郡山市出身の作家が、県内を南北に歩いて往復する旅に出た。途上にはもちろん、津波に呑(の)まれた町も、「イチエフ」すなわち福島第一原発もある。二〇一九年の台風十九号による被害の跡も、まだ生々しく残っている。

 この本は、古川日出男が初めて「ルポルタージュ」として書いた作品であるが、見聞きしたことがらを整理し、なめらかに記すような構えはとっていない。被災した人々の抱える思いの複雑さをそのまま記し、思考は『平家物語』に語られる歴史や、「ゼロエフ」と名づけた幻の同行者にも及ぶ。一種の私小説の試みとして読むこともできるだろう。

 なぜ歩いての旅なのか。震災をめぐる語りの「紋切り型」に対する自戒が、そこに関係している。津波と原発事故が広く注目されるかたわらで、土砂崩れによる死者や、「フクシマ」県外の被災地域の存在が忘れられてしまう。原発事故による避難を強いられた女性が口にした、それでも海は美しいという言葉。そうした現実のさまざまな側面を「複眼」でとらえ、思考をゆっくりと深めるには、歩きながら現地の風土にふれ、人々と向きあう方法がふさわしい。

 「イチエフ」の歴史の起点として想像される「ゼロエフ」は、昔から周期的に津波に襲われてきた国土の記憶であり、戦争と災害による死者のうめき声であり、生と死に関する古川その人の原体験でもある。この「ゼロエフ」の存在を、全身によって体感することを通じて、いまここにある現実を、遠い過去から連なる時間のなかに位置づけることができる。そして未来へと向かうためには、われわれが属するこの「国家」にいかなる「理念」を与えるべきなのか。重い問いをめぐる思考に、読者もまた引き込まれてゆくのである。

読売新聞
2021年3月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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