『泳ぐ者』
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理解しがたい行動の裏には切実な思いが隠されている
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
人の心に棲む鬼とは一体何者か。
本書は、非常に高い完成度を持つ動機探しの物語である。青山が二〇一六年に発表した短篇集『半席』は、時代小説のみならずミステリーとしても高く評価された。その続篇に当たる長篇だ。
監察を行う徒目付(かちめつけ)の片岡直人は、ある殺人事件がきっかけで、職務を続ける自信を失っていた。重病のため寝たきりになっていた藤尾信久という元勘定組頭の男が、元妻に刺殺されたという事件である。彼女の動機を探ろうと推理を巡らせた直人は、一つの仮説を組み上げていた。それは堅固なものに見えたが、彼の努力を嘲笑うかのように、事件は予想外の結末を迎えてしまった。
自分は人の心に巣くった鬼の正体を解明し損ねた。そんな思いを抱えて街を行く直人は、ある奇妙な出来事に出会う。初冬に大川を泳いで渡っている者がいるというのだ。しかも毎日同じ頃合いに。その蓑吉という男から泳ぐ理由を聞き出したことが、直人を開眼させる。人が抱える闇は彼が思う以上に暗く、底知れないものだった。
個人の行動は、それ自体では「取るに足らぬ」ものだが、「人が生きて死ぬことのすべて」が実は詰まっている。放っておけば消えてしまうものだからこそ、誰かがそこに着目しなければならないのである。理解しがたい行動の裏には、切実な思いが隠されている。直人の誠実な調査行が、それを明らかにするのだ。
時代は文化期に設定されており、日本近海に現れた外国船によって国の安全が脅かされるという出来事への言及も作中にはある。そうした外交問題と比較すれば徒目付が扱う事件は小さなものだが、直人の上役である内藤雅之は、民の心に気を配ることこそが政道の礎だと語るのである。この言は、個人の尊厳がないがしろにされる現代の世相への鋭い批判にもなっている。人の心を知ろうとしない社会に明日はあろうか。