本当に大切なことに気付かされる時代小説 筑後初代国主・田中吉政の立身出世を描いた一代記

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

田中家の三十二万石

『田中家の三十二万石』

著者
岩井三四二 [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334913892
発売日
2021/02/25
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

[本の森 歴史・時代]『田中家の三十二万石』岩井三四二

[レビュアー] 田口幹人(書店人)

 人は、いつの時代においても、その時代のうねりに翻弄され、本当に大切なものを見失うことがあるのだということを、岩井三四二『田中家の三十二万石』(光文社)を読み終え、しみじみと感じた。

 本書は、信長・秀吉・家康の三英傑に仕えた筑後初代国主・田中吉政の立身出世を描いた一代記だ。関ヶ原の合戦後、逃亡した敵方の大将である石田三成を捕らえた人物として、その名を目にしたことはあるが、田中吉政を題材とした時代小説をこれまで読んだことがなかった。

 当時、三十二万石を領していた、といえば大大名だったはずなのに、これまで取り上げられることが少なかった理由を、著者は一代記として描きながら紐解いていく。

 物語は、寛永六(1629)年、吉政の没後二十年の江戸で、かつて吉政の家人であった宮川新兵衛が、幕府老中に田中筑後守の事績を問われ、その生涯を語るという設定で進んでゆく。

 近江国浅井郡三川村で、農民として田畑を耕していたが、重い年貢を納めることができずにいた。苦しい生活から抜け出るため、年貢を納める側から年貢を徴収する側に立つことを目指し、侍になるべく領主である宮部善祥坊の草履取りとなり、戦国武将への道を歩み始めるまでを描いた「はじめの三石」。のちに吉政の人生を左右する木下藤吉郎の甥・万丸の子守役となるまでを描いた「おどろきの七十五石」。鳥取城攻めの武功を描いた「千五百石の焦り」など、吉政の人生におけるターニングポイントとなった七つの出来事が、恩賞として授かった石高で表され、出世していく過程を実感することができる。

 武芸だけではなく、戦術、算用や土木技術、さらに調略などを身に着けるために昼夜を問わず努力し続けたのは、武功をあげ、侍として出世するのだという一点の目標のためだった。

 出世のためには理不尽な要求も飲みこんできた吉政は、妻・おふくや子息との葛藤を描いた「三十二万石を抱きしめて」で、見失っていた大切な存在に気付くことになる。

 農業の発展に尽力し、水運との一石二鳥となる堀を活用した城下町をつくり、周辺の道路整備などを行い、現在の筑後一帯の街づくりの礎を築き、土木の神様とまで呼ばれている武将が、なぜ無名の存在だったのか。

 物語を語り終えた宮川新兵衛と老中の最後の会話の中に、その問いに対する著者の仮説を読み解くことができる。そして、一心不乱に侍としての出世を目指した吉政の生涯が、我々に教えてくれることがある。

 本当に大切なものを見失うな、と。

新潮社 小説新潮
2021年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク