旅する練習 乗代雄介著 講談社

レビュー

4
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旅する練習

『旅する練習』

著者
乗代 雄介 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065221631
発売日
2021/01/14
価格
1,705円(税込)

書籍情報:openBD

旅する練習 乗代雄介著 講談社

[レビュアー] 長田育恵(劇作家)

 この小説は再読せずにはいられない。一見してささやかな物語、抑制のきいた筆致に野心的な構造が秘められている。小説家である「私」が姪(めい)でサッカーに夢中な亜美(あび)と、中学合格祝いに我孫子から鹿島まで徒歩で旅する物語。途中「私」は文章で風景をスケッチし、亜美はリフティングしながら待つ。これはふたりの「歩く、書く、蹴る」ための練習の旅だ。

 読み進むうち、旅を綴(つづ)る「私」の文章に小さな違和感が忍ばされているのに気づいていく。どうやら初見の情動と記憶を辿(たど)り直す眼差(まなざ)しが二重に在るようで旅の色合いが深まっていく。

 「私」の文章スケッチは、生命の存在感に引き寄せられている。「私」自身がアビという鳥の名を与えた姪はランバードのシューズを履き、軽やかにドリブルする。リフティングの回数はまるで鼓動の記録だ。「私」は利根川水系に棲(す)む多種の鳥の生態にも精通し、死の情景までも子細に書き留めていく。その眼差しは、光の粒子でフィルムに焼き付けるかのように、精確(せいかく)であろうとし、色合いに満ちている。

 一方で「私」の内側は巧みに隠されている。「私」は旅程ごとに自らの感情を刻むかわりに土地ゆかりの文人の引用を書き込んでいく。その態度は、心を透明な殻で閉ざしたまま、足跡だけはノートに残す行為のようで、読むうちに「私」の内側に触れられないもどかしさが掻(か)き立てられていく。やがて、それがなぜなのか、すべてを諒解(りょうかい)する瞬間がもたらされる。

 利根川沿いを歩く旅の終着点には海が待つ。終わりこそが、終わりなき旅路の始まりでもあるのだ。「私」が羽ばたく鳥たちの面影を追い、土地に抱かれし記憶を辿っていた時間はまもなく終わる。そこから歩き出さなくてはならない時が近づいている。旅する練習とは、そのための準備の時間でもあったのだ。書かれていない余白に「私」の想(おも)いが深く脈打つ。この小説を読み終える時、ついに「私」の旅が始まる。

読売新聞
2021年4月11日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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