「人」も「会社」も診る<産業医探偵>が活躍する異色ミステリの誕生

エッセイ

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産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート

『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』

著者
梶永 正史 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041108956
発売日
2021/04/23
価格
792円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「人」も「会社」も診る<産業医探偵>が活躍する異色ミステリの誕生

[レビュアー] 梶永正史(小説家)

 産業医として大手企業と契約する渋谷雅治は、営業部社員の自殺の背後にリコールすべき重大案件が隠されていることに気づく。彼はなぜ死んだのか? その会社はどういう道を選ぶのか? 史上初とも言える<産業医探偵>が謎に迫るミステリー誕生にあたって、著者である梶永正史さんにエッセイをお寄せいただきました。

 ***

『四十にして惑わず』

 孔子曰く、四十歳にもなれば物事に対する正しい道筋や考え方を理解することができ、煩悩に惑わされず進むべき方向にも惑わなくなる――。

 しかし、その四十を迎える年の初詣。参拝の列に並んでいた当時の僕は間違いなく惑っていました。

 現状にこれといった不満を抱えていたわけではありませんでしたが、ふと「自分はこれまでの人生でいったいなにを成し遂げたのだろうか」と考え、不安に襲われていたのです。

 器用貧乏といえばいいのか、そつなくなんでもこなしてきた反面、なにもかもが中途半端で、なにひとつ極めたものがなかったのです。

 これが“惑い”の原因だったのだと思います。

 そしてお賽銭を投げ入れ、手を合わせて今年の願をかけながらひとつの目標をたてることにしました。

 ――今年は長編小説を一本、最後まで書き切る!

 なぜに小説だったのか。

 僕は十八歳のとき、映画などの映像制作の世界を夢見て上京し、意気揚々と専門学校に進学したものの、一年で中退。その夢は藻屑となっていました。

 なにかを行おうとするとき、辛いことや苦しいことから逃れるための言い訳が瞬時に頭に浮かび、その場その場の楽しさを優先してしまう自分の忍耐力の無さが原因でした。

 ただ、その際に脚本を学んでいたことが道筋を示してくれました。

 ――小説なら自分の頭の中だけで完結できる、と。

 実は、それまでにも小説を書こうとしたことは何度かありましたが、長編小説執筆に必要な忍耐力がなく、その都度挫折していました。それを今年こそはやり遂げるのだと決意したのでした。

 そんな時、ひとりの青年と出会いました。

 彼もまた惑っていました。恋人の死に絶望し殻に閉じこもっていたのです。そんな彼を救ったのは、死に場所を探すために訪れた北海道で出会ったひとたちでした。そして、心に傷を負ったことがある者として精神科医を目指し、あらたな一歩を踏み出す――。

 これは僕が初めて完成させた小説の中での話で、その悩める主人公こそ、渋谷雅治でした。

 彼の行動や旅の様子を頭の中で映像として再生し、それを言葉で書き記していきました。それは1年以上の時間をかけ、最終的に原稿用紙800枚に及ぶ大作となりました。

 そんなに長い時間ひとつのことに打ち込めたのは、この渋谷雅治が自分の投影でもあったからだと思います。

 この作品の執筆は、自分の情けなさや後悔、反省、そんなものが整理整頓されていくような体験で、それがどこか心地良かったのかもしれません。

 そのため、ある意味、私小説的でもあったこの作品を発表することなどは考えてはいませんでした。

 ただ、生粋のお調子者でもある僕は、やり遂げたことに気持ちが大きくなってしまい、ふと思ってしまったのです。

 ――こんなに面白い小説を書けるなんて自分は天才ではないのか。

 ――これを世に問わなくてどうするのだ。

 そして応募したのが『このミステリーがすごい!大賞』でした。

 当然、箸にも棒にもかからない結果となりましたが、1年以上、苦楽をともにしてきた渋谷に対しては特別な感情を持つようになっていました。日々悪戦苦闘しながら小説を執筆してきたことが習慣づいていたこともあり、彼を初めての小説の中だけに閉じ込めず、その後の活躍を描きたいと思うようになりました。

 それは活躍する彼を描くことで、自分の未来を重ねたかったのかもしれません。

 『このミステリーがすごい!大賞』には毎年応募するようになりますが、渋谷は2作目と3作目にも登場しています。落選続きでもモチベーションが失われなかったのは、彼の成長と活躍を見ることが楽しかったからだと思います。

 4回目の挑戦で大賞を受賞し、小説家としてデビューしてからも渋谷はさまざまな作品に顔を出しています。

 僕の中では渋谷という人物は一貫した人生を送っていますので、登場する時は常に相応に年齢を重ねた精神科医としてでした。

 『アナザー・マインド』『ストロボライト』では、主人公に助言をする“怪しい精神科医”として準主役の働きをし、そしてこの度、満を辞して渋谷雅治を主役とした作品を書くことができました。

 あの初詣の誓いで彼と出会ってから、9年目のことになります。

 今回、渋谷は精神科医としての経歴をもった『産業医』として登場します。

 あることをきっかけに、ひとの心に触れることから逃げてきた渋谷がたどり着いたのが 産業医でした。

 産業医は法律により企業の規模に応じて選任することが定められた医師のことで、職場での労働者の健康管理等を行うことを職務としています。

 精神科医として、また(作品によっては)警察の捜査に専門家として助言をするほどの活躍をしていたはずの渋谷がどうして産業医になったのか。

 そこで一体なにを見て、どう行動するのか。

 企業は“人”の集合体であり、その“人”は論理よりも感情を優先して決断することもあれば、油断や思い込みで物事を判断してしまうこともあります。

 時として、それは予期せぬ事態を引き起こします。

 この物語は、道を誤ってしまった企業の精神であり、ふたたび挫折を経験した渋谷の再生の物語でもあります。

 そして、同じく挫折をしてきた過去の自分へのエールでもあるのかもしれません。

 本記事を寄稿するにあたり、あらためて本作を読み返しながら、ぼんやりとそんなことを感じています。

梶永正史(かじなが・まさし)小説家

アップルシード・エージェンシー
2021年4月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

アップルシード・エージェンシー

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