気鋭の精神科医・翻訳家が読む、現実に侵食するフィクション――パク・ソルメ著/斎藤真理子訳『もう死んでいる十二人の女たちと』(阿部大樹 評)

レビュー

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了見

[レビュアー] 阿部大樹(精神科医)

 僕が生まれたのは新潟の小さな港町で、そこには柏崎刈羽原子力発電所が建てられている。喫茶店をやっている母の住む家から一〇kmと離れていない。もし地震があれば―というか、二〇〇七年の中越沖地震では実際にそこから煙が上がったのだけれど―浪江町とか双葉町みたいに帰還困難区域になるだろうと思いながら、そこでは皆が暮らしている。

 そういうところに育って―さらに付け加えると、つくられた電力はすべて東京に送られている。柏崎から東京まで、人間は乗り換えしないと行けないけれども、太い黒い送電線は直通している―医者になっていまは臨床と少しの翻訳をやっているが、名前が売れたと判断されたのか知らないが、原発の運営会社もきっと会員であるだろう経団連から、自分たちの機関誌にエッセイを書いてくれと先日依頼があり、大した面の皮だよと思いながら「自分の手足を使って働け」というようなことを書いて送ったところ、編集長の器が大きいのか、あるいは単に原稿を読んでいないのか、そのまま掲載されるという珍事があった。

 現実におきる物事にはこのタイプのおかしさ(多義的な言葉だ)があるためにそのままでは小説にならない。その表れの一つとして、パク・ソルメが「私たちは毎日午後に」で書いたような、現実についての態(ヴォイス)や時制を決められないときの戸惑いがあるのではないか。たとえば原子力発電所が爆発したとするか爆発していたとするか爆発してしまったとするか。世界中の日本料理店が博物館になっていたかもしれない二〇一一年以降の世界を、未来形で書くべきかどうかとか。その点で私たちはフィクションを手放すことができないでいる。

 そして大半の道徳的悪事は、特にそれが大規模であるほど職務の一環として行われるわけで、多層的というよりも無層である。悪事は〈良い作用もあった〉とか〈それで食っているひともいる〉とかの文言によって分解されるものではない。「そのとき俺が何て言ったか」で殺人者が『ゴールキーパーの不安』のブロッホみたいに平板化されてマットに描かれていることについて、どうしてこの人物が一番に気持ち悪いのかと改めて問われると、ただ了解不可能であるからという以上の問題が示されてるように感じる。

 ただ正直なことをいえば、私はむしろ、韓国水力原子力公社を爆破して、そこの幹部たちを拉致して人質劇をくり広げるようなありえない映画を見たかった。幹部の頭一つに原子炉を一つずつ賭けて一時間対峙するとか、そんな映画。人質の家の庭にウラニウムを埋めちゃって、ねまき姿のその人を核廃棄物処理作業員として働かせるような映画。

 ここに引用したものが小説ではなく書評のなかでも機能するというのが不思議で、それもあってこの綿矢りさがドイツ語で書いたみたいな短編集を読み返したくなる。

河出書房新社 文藝
2021年夏季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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