われらはすでに交差点の上にいる――アンジェラ・デイヴィス著/浅沼優子訳『アンジェラ・デイヴィスの教え 自由とはたゆみなき闘い』(高島鈴 評)

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われらはすでに交差点の上にいる

[レビュアー] 高島鈴(ライター)

 マジ? 警察って消せるんだ! BLM運動がミネアポリス市警の解体という成果を上げたときの興奮は忘れようもない。民衆の勝利を一つ祝いながら、列島社会でも私が生きているうちに同じ光景が見られるのではないか、さらには国家の解体も思いのほか遠くないのではないかと、強い期待を持った。これは間違いなく希望だった。どこかの不正義はどこかの公正を脅かすが、どこかで成功した公正の実践は別の場所へ伝播する。全ては繋がっている。この「繋がり」―あらゆる地域で政治的連帯を結び、地下茎で繋がった数多(あまた)の不正義を廃止(アボリション)する―の重要性を説くのが、『アンジェラ・デイヴィスの教え 自由とはたゆみなき闘い』である。

 デイヴィスは現在七七歳、五〇年以上運動の最前線に立ってきたアクティヴィストにして哲学者だ。本書はデイヴィスのスピーチ、インタビュー、講演録を収録し、活動の軌跡と思想のエッセンスを明快に伝える。

 訳者のまえがきによれば、デイヴィスの立場は「共産主義者で、進化論者で、国際主義者で、反人種主義者(アンチ・レイシスト)で、反資本主義者で、フェミニストで、黒人で、クィアで、アクティヴィストで、親労働者階級(プロ・ワーキング・クラス)で、革命家で、知的コミュニティ構築者」だという。この、あえて言えば「長い」肩書き全てが紹介されるのは、これらの要素全てが常にデイヴィスの闘争の歴史に関わってきたためだ。

 全てが、常に! この点はいくら強調してもし足りない。差別は複合的に生じるからである。デイヴィスが下地を作り、キンバリー・クレンショーが生み出した概念「交差性(インターセクショナリティ)」は、七〇年代のフェミニズムにおける中流階級以上の白人中心主義を痛烈に批判し、階級/人種/ジェンダー/セクシュアリティなどの諸要素が激突して交通事故のように生じる差別の複合性を鋭く問題提起した。

 デイヴィスが強調するのは、この交差性の実践である。たとえば労働階級の移民女性が受ける家庭内暴力が移民差別・女性差別・階級差別にまたがる問題であるように、各地で起きる別々の運動も、対峙する敵の根を辿れば必ずどこかで交差が起きている。ならば今取り組むべきは、分野も国境も跨いだ政治的連帯なのだ。繰り返すが、全ては繋がっている。警察の暴力を批判する一方でフェミニズムは無視する、日本の社会問題以外には全く興味を示さないなどといった愚かしい閉鎖的姿勢を超えた先に、デイヴィスの描く世界規模の民衆運動がある。

 性別適合手術が注釈なく「性転換手術」と訳出されている点(一八六頁)に批判は必要だが、本書に伝わるデイヴィスの言葉は、不安を抱えながら今を戦う者のための道標になりうるだろう。われらの行動は、同じ時間を生きる遠い人の現実に、過去を生きた人の尊厳に、そしてこの先を生きる人の歴史に影響する。何もしないわけには、どうしたっていかない。

河出書房新社 文藝
2021年夏季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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