ウィーン近郊 黒川創著 新潮社

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ウィーン近郊

『ウィーン近郊』

著者
黒川 創 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104444113
発売日
2021/02/25
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

ウィーン近郊 黒川創著 新潮社

[レビュアー] 長田育恵(劇作家)

 ただ「死」があった。一つの死を円心として広がる環状の空白。それはこの異国の都市の様相と重なる。この街は同心円的に広がりながら形成されてきた。行政区の外側を環状道路がめぐり、その周縁に市外区が広がる。十九世紀末まで「近郊」と呼ばれてきた地域だ。今では人口の四分の三以上が暮らす。この死は、そんな多数の市民の中で、ひっそりと死んでいった、最期まで異邦人であり続けた者の選択だった。

 西山奈緒は、兄がウィーンで自死したと知らせを受ける。葬儀や諸々(もろもろ)の手続きのため幼い息子を連れて渡墺(おう)する。兄はウィーンで四半世紀暮らし、鬱(うつ)病を抱えていた。だが最後の電話で朝が来たら関空に向かうと言っていたのに。兄はなぜ死んだのか。奈緒は空白に向かい合う。

 故人ゆかりの人々の証言。兄の住まいや火葬場を巡る街の情景。日本で生きづらさを抱えていた兄の痕跡を、奈緒は拾い集めていく。手伝うのは領事館の久保寺。転任が決定している彼は、死のアウトラインを申し送り事項として記述していく。それぞれのテキストが組み合わされ、死に向かう兄の後ろ髪が見えてくる。

 死に意味を与えることは、死者のためではなく残された者の救いのための行為だ。死に対し本当に必要な振る舞いは、ただじっと耳を澄ませ見つめること。だからこそ奈緒と久保寺は、空白を埋める為(ため)に感傷という欠片(ピース)は使わない。替わりに街と死を俯瞰(ふかん)して、街の歴史や「オイディプス」「アンティゴネ」「エゴン・シーレ」「杉原千畝」などの欠片を想起する。それら既知の材料を用いることで、手のひらがようやくこの街で起こった「死」の感触を捉え始める。

 環状の空白を欠片が埋めていくにつれ、どうしても埋まりきらない円心部が際立ってくる。そこに死者の、死者だけの、生々しい「生」が息づいている。残された最後の空白に向かい、奈緒は語りかける。その声は、きっと死者の魂に届くだろう。どんな祈りよりも安らかに。

読売新聞
2021年5月2日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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