間違った国策に翻弄された多くの人々の無念と悲しみの物語

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忘れられたその場所で、 = In the forgotten place

『忘れられたその場所で、 = In the forgotten place』

著者
倉数, 茂
出版社
ポプラ社
ISBN
9784591170090
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

歴史の堆積から照らされる未来

[レビュアー] 江南亜美子(書評家)

2018年に刊行された『名もなき王国』で、日本SF大賞、三島由紀夫賞にダブルノーミネートされるなど、高い評価を受けた倉数茂の新作ミステリ『忘れられたその場所で、』が刊行された。書評家・江南亜美子氏が書評を寄せた。

 ***

滴原千秋と美和の兄妹、そして岩手県の七重と聞けば、体温を奪っていく風に吹かれたあとのように、ぶるっと身震いを覚える読者も多いことだろう。そう、本作『忘れられたその場所で、』は、タイトルに「冬」の一字が入りはしないものの、『黒揚羽の夏』『魔術師たちの秋』(ともにポプラ文庫ピュアフル)に続くシリーズの三冊目となり、おなじみの滴原兄妹や七重という町を代表する名家、大間知家の面々も登場。またしても現実と幻想の境を行き来しながら、土地のディープな歴史が深堀りされていくことになる。

しかし本作から、あるいは本作のみを読んでもまったく支障はなし。よそ者でありながら町の深淵を覗いてしまう滴原美和をナビゲーターに、物語の世界にゆっくりと足をふみいれよう。シンプルにみえたひとつの殺人事件が、幾重にも折り重なって堆積したこの地の時間と接続し、謎の解明へと向かっていくその流れは、とても重厚かつスリリングだ。

『黒揚羽の夏』が、少年少女が見知らぬ田舎町でひと夏を過ごし、いやおうなく大人になっていく、というジュブナイル物/成長小説の王道的な物語の骨格を持ちながら、幻想小説としての要素も多分に有したミステリ作品であったのと同様に、『忘れられたその場所で、』もまた、ノワールなムードをたたえた本格ミステリであり、県警本部VS所轄などの組織内の競争原理を描ききった警察小説でもある。国家権力の犯した過ちに立ち向かう人間の物語であり、苛烈化する現代の能力主義の危険性を示す社会派のテーマも光る。このように、ひとつの文芸ジャンルには収まりきらない物語のスケールの大きさが本書の魅力なので、まずは先入見なくひもといてみることをおすすめしたい。

物語は、心身の不調を訴える美和が東京を離れ、七重市の高校に転入するところから始まる。亡き祖父のかつて住んだ家には、いま盛岡の大学に通う兄の千秋が暮らしており、同居することにしたのだ。彼女は幼少期から、非現実的なものを幻視する力を自覚し、近ごろはそれがまた強度を増していた。そうして十一月のある日、古色蒼然とした見知らぬ通り道で人のようでも異形でもある無数の影のざわめきを感じたあと、ひとりの老人の異様な遺体を発見することになる。

ここから物語は基本的に、二十九歳の警察官、麻戸浩明の視点にうつる。ガイシャは七十一歳の斗南という男であり、長時間の拘束と拷問のあとで絞殺されたとの検死結果がでたことから、殺人事件としての捜査が開始される。浩明は、年上のいわくつきの女性警察官とコンビを組むが、その捜査方法は違法すれすれだ。田舎には稀な凶悪犯罪に組織内は色めき立ち、覇権争いが起き、手を結ぶものあれば裏切るものもあり、浩明もその興奮にのまれていく。地縁も血縁もないように見えた斗南の過去が次第に明らかになるとき、一見おだやかで自然豊かな七重という町に内包された暗い歴史が、そして、間違った国策に翻弄された多くの人々の無念と悲しみが、私たち読者の前に姿をあらわすのだ。

斗南はかつて、「療養所」に勤めていた。しかし療養とは名ばかりの、ゆがんだ優生思想に基づく抑圧と差別が、移動の自由や就労の権利といった基本的人権の侵害が、そこでは起きていた。

〈「その人たちは〈自分〉であることを奪われたと言っていいと思います。一人ひとりのそれまでの〈生〉を奪われてしまった」〉

そのことの痛ましさが、若き警察官である浩明の胸に強烈に突き刺さるのは、彼自身が障害がある弟を持つ身であり、弟との関係に後悔や贖罪の意識や、また自身の暴力の欲求に対する惧れなど、いわく言い難い複雑な感情を抱えこんでいるからだ。差別者とそうでない者を、心なき冷酷な陰謀者とそうでない者を、はっきりと区別する壁などない。自分がいつ、そちらがわに転がるかもしれないという恐怖も、浩明にはヴィヴィッドなものなのだ。

ちなみに、本作の著者は、『黒揚羽の夏』の発表後に、『私自身であろうとする衝動』(以文社)という大著を刊行している。小説執筆以前より取り掛かっていたというこの著書の内容をひとことで要約するのは簡単ではないが、他の何者でもない「私という生」の意味を、関東大震災前後の日本で活躍した思想家、作家たちの仕事を参照項として、緻密に思考していくものだった。もろさと無限性を同時に体現する「私」とは、一体なんなのか。これほど普遍的で根源的な問いはなかなかないが、著者が本作でもこの問いと真摯に向き合ってテーマを展開していることは、浩明という主人公の造形などからも明らかだ。

浩明がおもだって解明を試みる殺人事件の顛末や町の暗部については、未読者の楽しみを奪わぬよう言及をひかえるが、遺体の第一発見者という役割を果たしたあとで遠景に退いたようにみえる滴原美和とその兄の千秋は、ラスト近くにまた登場する。前作、前々作よりもさらに鬱屈の度合いを深め、かつ鋭利さを増した大学生の千秋は、七重の未来を予言的に幻視するようでもある。元々シャーマン的気質の妹とコンビを組んで、妥協なく掘り起こした過去の地層から、この町の行く末を照射してみせるに違いない。明らかにシリーズの次の展開を読者に期待させる終わりに、続編が楽しみに待たれる。

ポプラ社
2021年5月19日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

ポプラ社

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