世界はゲームだぜ 『トマス・ピンチョン全小説 ブリーディング・エッジ』

レビュー

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世界はゲームだぜ

[レビュアー] 池澤夏樹(作家)

池澤夏樹・評「世界はゲームだぜ」

 ピンチョンなんて知らないよ、という人のために書こう。

 この作家にはオタク的なファンが多くてぼくもその一人だが、今はその身分を棄てよう。

 さ、みなさん、中に入って! ずっと奥へ奥へ!

 スタートは探偵小説だ。探偵がいて、そこへ依頼人が来て、何か謎を提示する。シャーロック・ホームズ・シリーズの「赤毛連盟」はジェイベズ・ウィルソンという赤毛の紳士が訪ねてくるところから始まる。ロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』では……いや、これ以上の列挙は不要だろう。

 この話の探偵はマキシーン、元公認不正検査士。奸計で資格を剥奪され、それで逆に信用が増して顧客が増えた。

 依頼人はレッジ・デスパードで、提示される謎はハッシュスリンガーズというコンピュータ・セキュリティの会社とその経営者たるゲイブリエル・アイスという男。時代は二〇〇一年の春からほぼ一年間。つまり9・11を含む。場所はNY。

 盛られた話題は、サイバースペース、インターネットとセキュリティ、ゲーム、プログラミング、IT企業と金融とその裏社会と何かの密輸、とどこまでも広がり、そのぜんたいをファッションやフードやポップ・カルチャーがびっしりと覆う。この展開に連れて登場人物の数も数十名に及ぶ。

 登場人物の名。ピンチョンは命名に凝る。特に姓の方。初期の長篇『V.』の二人の主人公はプロフェイン(非信徒)とステンシル(型紙)だった。今回もヒロインのマキシーン・ターノウという名、Tarnowは「タール」と「今」から成っているように読める(実はポーランドの町の名とか)。マキシーンの方は、これはけっこう珍しい名だからついポップスがらみでジャズ・シンガーのMaxine Sullivanを思い出す。依頼人のデスパードDespardはdesperate(必死)ではないか。調査対象のアイスはもちろん氷。しかしウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』の「ICE 侵入対抗電子機器」がちらつく。隠れた寓意がいつも気になるのがピンチョンなのだ(と、オタクを隠しきれないボク)。

 コメディーであり、文章によるコミックである、それもけっこう日本風の。だからナラティブの主体はもっぱら会話で、そこにマキシーンの内部の声と作者の地の声が加わる。フキダシと背景説明と時おりの大齣。風景と光景とアップ。

 画風は綿密だが、それでも『AKIRA』ほどではない。

 そして、会話のほとんどは実に軽い――

「いや、初めから倒産するのはミエミエだったから。お金ないくせにトラフィックをじゃんじゃん買おうとしてさ。ドットコム系にはよくある話。アッと思ったら、負債抱えて会社は消滅。ヤッピーがまた一かたまり、トイレにボコボコ流れてく」

 このはじけた文体を訳者たちが巧みにたった今の軽いノリの日本語に移している。これもギブスンを訳した黒丸尚か。

 コミックだから長い。七百ページでよく止まったものだ。人物描写がよく言えば二次元的、悪く言えば薄っぺらなのもコミックの特徴だが、しかし奥が深い。若い登場人物の一人が言う――

「今の時代、サーフェス・ウェブを見りゃ、くだらないおしゃべりと、物売りと、スパムと、宣伝と、怠惰な指のパカポコばっかでしょ。それをみんなひっくるめて“経済”っていうんだそうだけど。でもさ、おれたちが探っている深みのどこかに、ここまではコード化できたけれどその先はコード化できないという水平線がきっとあるんじゃないかな。底なしの深淵が」

 主軸はマキシーンとアイスの闘いと見えるけれど、それは話を駆動する仕掛けでしかない。ピンチョンはIT技術に絡め取られた社会相のぜんぶを書こうとしている。長い手を広げ、ごっそり集めてこの話の中にがらがらと放り込む。細部が際立って全体像がぼやける。やっぱりコミックだ。

 未来が透かし見えるところがおかしい。ピンチョンがこれを書いたのは二〇一三年だが、既に悪しき資本家としてドナルド・トランプの名が挙がっている。

 つまり我々はこういう時代に生きている。

新潮社 波
2021年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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