欠落を抱えていても触れ合うことで生まれる何か

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欠落を抱えていても触れ合うことで生まれる何か

[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)


文藝 2021年夏季号

 今月は『文學界』5月号と『ことばと』vol.3で新人賞の発表があり、どちらも2作品が受賞した。新人作家の誕生を言祝ぎたい。

 さて、今月まず注目したいのは、藤代泉「ミズナラの森の学校」(文藝夏季号)である。舞台は北海道のフリースクール。語り手のりせが7年ぶりにその学校を訪れる。りせは学生ボランティアとして1ヶ月間この学校を手伝ったことがあった。そのときの仲間で卒業後同校に就職した英里子に声を掛けられたのだ。

 施設には、本人か、家庭か、あるいはその両方に問題のある子供たちが預けられている。だが、見る側だからといって、りせたちに欠落がないわけではない。

「ずっと抱えているんだろうな、と思った。自分でも止めることのできないものを。抱えたまんま生きてきたんだろうな」

 欠落を抱えた者同士が、面倒を見る-見られるという非対称な役割を背負って、一つの場所に集って過ごす。触れ合いを通じた癒やしといった落着はない。むしろ癒やされえないことが徹底して描かれている。

 しかし、他人と他人との関わりから、生きる縁のようなものが生まれる瞬間はある。背景まで入念に書き込んだ登場人物たちからこぼれ落ちる、ささいだが決定的ないくつかの場面によって、作者はその瞬間を切り取ろうとしている。

「喧嘩凸待ち生配信」で憂さを晴らすエリートサラリーマンと、「金キング」と名乗る不登校高校生との奇妙な関わりを描いた児玉雨子「凸撃」(同)も、欠落を抱えた者同士、つまり現代人のコミュニケーションが主題だ。

「なぜ俺たちは脆弱さを剥き出しにしたまま生まれてしまうのだろう。(中略)欠落はどれほど他者を叩きのめせば補えるのだろう」

 断絶を含まずにはありえない関係性という難しいテーマに挑んでいる。児玉はこれが2作目。1作目より主題がはっきりしてきた。

 藤野可織「私の身体を生きる」(文學界)も鮮烈だった。テーマは、身体と妊娠・出産。エッセイゆえの生々しさが創作の秘密を明かすようだ。このエッセイはシリーズで、前回の村田沙耶香も強烈だった。

新潮社 週刊新潮
2021年6月3日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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