魂の彷徨と遍歴を描く秀作――『インドラネット』桐野夏生著 書評

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インドラネット

『インドラネット』

著者
桐野 夏生 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041056042
発売日
2021/05/28
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

魂の彷徨と遍歴を描く秀作――『インドラネット』桐野夏生著 書評

[レビュアー] 池上冬樹(文芸評論家)

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■桐野夏生『インドラネット』書評

■魂の彷徨と遍歴を描く秀作

池上冬樹(文芸評論家)

 本書を読みながら「漂えど沈まず」という言葉を思い出していた。主人公の八目晃がカンボジアに向かう旅客機の中で女性と知り合うが、その女性が読んでいる文庫本の作者が、開高健ということからの連想である。
 タイトルは出てこないし、ベトナム経由の旅客機なのでベトナム戦争体験を綴った『輝ける闇』かもしれないが、僕は未完に終わった『花終る闇』の一節を思い出した。そもそも闇三部作(『輝ける闇』『夏の闇』『花終る闇』)は「漂えど沈まず」という総称になるはずだったらしいが、ひたすら漂い、沈みそうで沈まずに生きる(でも八目晃は十二分に沈んでいる意識をもつ)姿勢が、そんな言葉を思い出させた。
 この「漂えど沈まず」というのは、『花終る闇』の書き出しの言葉であるが、この言葉は桐野夏生の文学と密接につながるものがある。魂の彷徨、魂のロードノベルという言葉で、僕は初期の『光源』の頃から桐野文学を表現してきたが、それを強烈に打ち出したのが、村野ミロ・シリーズの最終作『ダーク』である。シリーズ・ヒーロー(ヒロイン)をそこまで堕落させて追い詰めるものなのかと驚くほど容赦がなかった。これはその後の名作にみないえることだろうし、本書にもいえる。

インドラネット 著者 桐野 夏生 定価: 1,980円(本体1,800...
インドラネット 著者 桐野 夏生 定価: 1,980円(本体1,800…

 八目晃が会社の帰りにコンビニに寄ると、「野々宮さんのお父さんが、今日亡くなられたそうです」という連絡が母親から届く。都立高校の同級生、野々宮空知の父親が亡くなったという。高校時代、家が近いこともあり、三年間野々宮家に入り浸っていた。空知は長身で顔もスタイルもよくカリスマ性ももち、七歳上の姉の橙子、三歳下の妹の藍も美人で有名だった。大学に入ってからは疎遠になり、やがて空知と姉妹の三人が日本を出た。
 お通夜はさびしいものだった。空知の父親が経営していた会社が倒産したこともあるが、不思議なのは空知をはじめ子供たちが一人も列席していなかったことだ。晃は直会で知り合った二人の男から仕事を依頼される。一人は橙子の元夫、もう一人は藍が所属していた芸能プロの人間で、それぞれ安否を知りたがっていた。二人の行方を知っているのは空知で、消息を絶ったカンボジアにいき、まずは空知を捜してくれないかというのだ。
 晃はその話に乗る。二十五歳、非正規雇用で給与も安く、会社ではセクハラまがいの行動で非難されていた。運動神経は鈍く、勉強も得意ではなく、誇れるものは何ひとつない。唯一、空知と美人姉妹と過ごした高校時代だけが輝かしく記憶されていた。晃は会社をやめ、東南アジアへと旅立つ。
 桐野夏生の主人公の多くがそうであるように、この小説でもまた主人公は旅に出て、その地での遍歴を重ねる。聞いていた話とは全くことなり、金を失い、非合法の仕事をさせられ、裏切りにあい、一体誰を信用していいのかがわからなくなる。身近にいる人間の誰もが敵対しているかのように思えてくる。それでも空知と姉妹の行方を追う。
 ジャンル的には、ハードボイルドや冒険小説になりそうなのに、そうはならない。カンボジア内戦の悲惨な歴史をふまえ、フン・セン首相率いる「カンボジア人民党」の独裁政治の中でうごめく者たちの不安と恐怖と絶望が迫り出してくるからだ。
 筆致はどこまでもリアリスティックである。最初から最後まで、しかと現実を見すえたリアリズムで通しながら、インドの神の一つであるインドラの網という比喩をもって、現実を超えていこうとする姿勢がある。帯に「現代の黙示録」とあるけれど、まさに映画『地獄の黙示録』や、映画に影響を与えたジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』を想起させるものがあり、一気に不穏さが増し、緊張感が高まり、何が現れるのか大いに気をそそる。
 それが何かは読んでのお楽しみだが、どこまでも現実的でありながら、現実を超越した何物かにふれるような感触がある。これは桐野文学ならではの体験だろう。とくに結末がそうで、残酷で、皮肉で、不気味で、オフビート。魂の彷徨と遍歴を描く、桐野夏生らしい秀作といっていいだろう。

■書誌情報

魂の彷徨と遍歴を描く秀作――『インドラネット』桐野夏生著 書評
魂の彷徨と遍歴を描く秀作――『インドラネット』桐野夏生著 書評

インドラネット
著者 桐野 夏生
定価: 1,980円(本体1,800円+税)

この旅で、おまえのために死んでもいい
平凡な顔、運動神経は鈍く、勉強も得意ではない――何の取り柄もないことに強いコンプレックスを抱いて生きてきた八目晃は、非正規雇用で給与も安く、ゲームしか夢中になれない無為な生活を送っていた。唯一の誇りは、高校の同級生で、カリスマ性を持つ野々宮空知と、美貌の姉妹と親しく付き合ったこと。だがその空知が、カンボジアで消息を絶ったという。空知の行方を追い、東南アジアの混沌の中に飛び込んだ晃。そこで待っていたのは、美貌の三きょうだいの凄絶な過去だった……

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/321701000339/

KADOKAWA カドブン
2021年05月31日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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