泡 松家仁之著 集英社

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3
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泡

『泡』

著者
松家 仁之 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087717365
発売日
2021/04/05
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

泡 松家仁之著 集英社

[レビュアー] 尾崎真理子(早稲田大学教授/読売新聞調査研究本部客員研究員)

 しばらく前から登校できなくなっている高2の「薫」が、夏休み中、居候しようと決めたのは、東京から700キロ以上離れた太平洋岸。変わり者の大叔父が暮らす町だった。

 抑圧的な環境がおそらく原因で、薫は空気を吸い過ぎ、体内に気泡を溜(た)めて苦しんでいる。そんな少年の症例と厳格過ぎる学校生活は、今も変わらずあるだろうが、どうやら時代設定は1970年代。古びたマツダR360を持つ大叔父の「兼定(かねさだ)」は、長いシベリア抑留から戻ると親族から疎まれ、独力で生き抜いてきた。兼定が営むジャズ喫茶で働く長髪の「岡田」も、東京にいたようだが、経歴は誰も知らない。

 コーヒーと軽食、夜には酒も飲めるその「オーブフ」のような店が、思えば昭和の頃には路上のアジール(自由領域、避難所)のように、どの町にもあった。作中の老若の東京者3人は、抑えた音量でモダンジャズをかけながら、掃除、調理、客の注文を黙々とこなす毎日を繰り返す。

 両親や教師に嫌悪しか感じなかった薫は、店を手伝ううちに、音楽が流れれば<それを聴いている耳が自分>、料理を味わえば<口からこちら側が自分>。<返すことばが自分だ。自分の声も>。輪郭を取り戻していく。ひとり海に浮かび潮にさらわれかけて初めて、<ぺらぺらした薄い紙のよう>な、自分という存在の重みを知ることにもなる。やがて消える泡沫(うたかた)のような生の時間。しかし兼定から岡田、岡田から薫への寡黙なリレー、いやジャズのセッションさながらに、かけがえのない連携が成立していた夏。はたして薫は、どんな大人になっていったか。

 8年前の中編『沈むフランシス』でも、作者は人生の難所に差しかかった30代の女性を描いていた。東京から北海道の片隅に移り住んで、「桂子」は郵便配達員となって背骨を立て直す。都会の住人の潜在願望に形を与えたような人物が登場する、松家仁之の小説。その文章を読む時間を何か、この時代の生薬のように感じる。

読売新聞
2021年5月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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