美味しい料理×友情――ジビエを通してつながる、ふたりの成長物語『みかんとひよどり』近藤史恵著【文庫巻末解説】

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

みかんとひよどり

『みかんとひよどり』

著者
近藤 史恵 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041108932
発売日
2021/05/21
価格
704円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

美味しい料理×友情――ジビエを通してつながる、ふたりの成長物語『みかんとひよどり』近藤史恵著【文庫巻末解説】

[レビュアー] 坂木司(作家)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

■美味しい料理×友情――ジビエを通してつながる、ふたりの成長物語『みかんとひよどり』近藤史恵著【文庫巻末解説】

■解説
坂木 司(作家) 

 人間は生きている以上、食べることから逃れることはできない。そして食事のたび、取捨選択を迫られる。「何を食べる」か「どう食べる」か、あるいは「誰」と「どこ」で「いつ」。自分の体調や財政事情、あるいはそのときに立っている場所などで、選択肢は変わる。『みかんとひよどり』は、ジビエを挟んでその取捨選択に向き合い続ける人々を描いた物語だ。

 まず大前提としてジビエとは何か、を書いておきたい。単語の基本的な意味は野生の鳥獣を指すフランス語。野生の肉という意味で、畜産肉との対比的に使われることもある。
 もういきなり、ここで私たちはひとつの問題を突きつけられる。畜産肉が流通している現代で、ジビエを扱う意味とは?
 答えは、いく通りもある。例えば本作の主人公であるフレンチのシェフ、潮田が語る「そこで生きていた命」を「ひとつの皿の上に表現したい」というクリエイターとしての興味。その潮田のレストランのオーナーである澤山の「おいしい」、あるいは「体調が良くなる気がする」という身体的な効果。そして潮田が出会う孤高のハンター大高が語る「人生を複雑にしたくない」から、山に住んで獲って売って食べる、という姿勢。他にも潮田の同業者である風野のように、珍しい商品として商売人の目線で興味を持つ人もいるだろう。
 ここで立ち上がってくるのが、なぜジビエに関してはこのような「言い訳」が必要になるのかという部分だ。これを魚類に置き換えると、その非対称性が明らかになる。畜産業者に近い養殖業者とハンターに近い漁師がいて、しかし漁師の水揚げは量的にも扱い的にもジビエ的ではない。ではジビエにあたるのは何かと言うと、個人の釣り人の釣果ではないだろうか。例えば天然の鮎が解禁になったとき、それを一皿の料理として表現する板前は多いだろう。それをおいしいと思い、初物は寿命が伸びると言いながら食べる人もいるだろう。もちろんそれは商売になるし、孤高の釣り人もいるかもしれない。しかし彼らは、ジビエをめぐる人々よりも責められない。それは日本人が魚食、ひいては海産物食において非常におおらかな視線を持っているからだ。
 魚食が当たり前ではない国から見れば、稚魚であるシラスを食べることは「もったいない」という視点がある。育てればもっと大きな魚体になって、たくさんの人が食べることができるのに、という理屈だ。私たちは、それと同じような視点をジビエに関して持っていないだろうか。ただ「おいしいから」捕るだけでは許されない何か。釣り竿には感じない不穏さを、猟銃から感じ取ってしまう。
 肉食文化の歴史が浅いといえばそれまでだが、実のところは魚類よりも鳥獣の方が、私たちに近い見た目を持っているからというのが理由かもしれない。物語の最初の方で顔の見えない人物から発信された「野生動物を殺して食べるなんて、残酷だ」というメッセージは、そんな感情的な部分の発露ではないだろうか。なら翻って問いたい。野生の魚を釣って食べても、この人物は同じメッセージを送るのか?

みかんとひよどり 著者 近藤 史恵 定価: 704円(本体640円+税...
みかんとひよどり 著者 近藤 史恵 定価: 704円(本体640円+税…

 命を等しく見るなら、そこに矛盾が生まれる。
 飼っている小鳥と、撃たれた小鳥。山に連れて行く犬と、そこに横たわる鹿。同じ四足歩行の哺乳類。それを見た潮田はその二者の間に「どれほどの距離があるのだろう」とつぶやく。
 その疑問を確かめるように、物語は二つのものごとの間で揺れ動きながら進んでゆく。山と都会。フリーランスと被雇用者。個人と団体。自然と人工。近藤さんの筆が滑らかすぎて気がつきにくいが、この物語には人生で出会う普遍的で哲学的な問題が数多くちりばめられている。
 人物もそうだ。大高は情報を遮断しつつもスマホを使用し、潮田は一度店を潰した雇われの身でありながら自分を曲げられない。そして一番強烈なのが表題になっている「みかんを食べたひよどり」で、これこそが最大の二項対立と矛盾を孕んでいる。
 作中では潮田がみかんとヒヨドリを「自然が生み出した名コンビ」と表現しているが、そのみかんは人工的に交配を重ねて生まれた品種であり、しかも廃棄された果樹園に残る果実なのだから、人工の果ての産物といっても過言ではない。人工的なみかんと自然の中に生きるヒヨドリ。そこに「自然とは何か」という一番大きな疑問が生まれる。
 自然という言葉には、いく通りかの解釈がある。「人の手が加えられないもの」ととれば前述の名コンビは成立しないが、「人間を含めたこの世のあらゆるもの」ととれば成立する。そう、この問題のポイントは人間を自然に含めるのかどうか、なのだ。

 命を等しく見るなら、鹿と犬の延長線上に人間もいる。
 では命を等しく見た場合、食物にさえならない害虫はどうだろうか。ノミやゴキブリを殺すことを「残酷だ」と叫ぶ人々はいるだろうか。実験動物の猿やラットに対して同情心を持っても、飛べなくしたハエの遺伝子解析実験に心を動かされないのはなぜなのか。
 矛盾は、どこまで突き詰めても矛盾のままだ。しかし考え続けなければいけない。
 それを近藤さんは、読みやすくておいしそうな物語の皿に載せて問い続ける。
 さらに近藤さんの筆が恐ろしいのは、大きな前提条件をさらりと物語の背後に隠していることだ。それは登場人物たちが「食を選ぶことができる」立ち位置にいること。
 例えば与えられるものを食べるしかない子供。あるいは経済的な苦境にある人。病気などで食に制限のある人。食を主体的に選択するということは、実はその人物が健康である程度自立していなければ不可能なことなのだ。そして選ぶ立場の人間には、ある種の責任が生じる。なぜなら何かを選ぶということは、何かを主体的に選ばない──つまり「捨てる選択」をしているからに他ならない。それを相殺するためにもフードマイレージや地産地消、SDGs といった食に対する能動的なアクションが必要になるのではないだろうか。
 そうしたことを体現しているのが、自分の好きな料理を食べるために潮田の店を作ったオーナーの澤田であろう。澤田はバイセクシャルのポリアモリーだと公言していて、その立ち位置こそがこの物語のブレイクスルーを担っている。どちらの性ともつきあうことができて、複数人との同時交際も可能。澤田は、二つどころではない世界を軽々と越境して生きている。自由に伴う責任。その澤田が選ぶ道の先に何があるか。そして潮田と大高はどんな選択をし、どんな世界を見るのか。さらにはどんな新しい料理が生まれるのか。結末はぜひ、読んで確かめていただきたい。
 何よりこの物語は、問題定義以前にとても面白いのだから。

KADOKAWA カドブン
2021年06月04日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク