今、冒険小説を読むならコレ! 新たな代表作『還らざる聖域』に記された物語の奇跡とは?

レビュー

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還らざる聖域

『還らざる聖域』

著者
樋口 明雄 [著]
出版社
角川春樹事務所
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784758413817
発売日
2021/06/15
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

樋口明雄の世界

[レビュアー] 西上心太(文芸評論家)

奇跡は何度でも起きる。 ここはそういう島なのだ

 デズモンド・バグリイ『高い砦』、ボブ・ラングレー『北壁の死闘』など、かつては胸を震わせてくれる山岳冒険小説がいくつもあった。冒険小説が冬の時代と言われる昨今、その復権に気を吐いている国内作家の一人が樋口明雄である。北岳を舞台にした〈南アルプス山岳救助隊K-9〉シリーズは、作者のライフワークといえるシリーズに成長した。

 そしていまここに、冒険小説を牽引する樋口明雄の新たな代表作が誕生した。

 五月初旬、屋久島永田浜の海岸に火器で武装した一団が突如上陸する。ウミガメの産卵を見ようと集まっていた観光客らを殺戮したのを皮切りに、警察署や消防署など重要拠点を次々と襲撃、島はあっという間に制圧されてしまう。しかも通信インフラが破壊されたため島外への連絡も絶たれ、屋久島は孤立する。

 山岳救助隊に所属する高津夕季巡査は、屋久島警察署からただ一人脱出に成功し、山に向かう。襲撃者の一団はリ・ヨンギル将軍が率いる朝鮮人民軍だった。ヨンギルは日本政府に対し、キム・ジョンウン総書記の解放と亡命を要求する。そしてそれが聞き入れられない時は、島に持ち込んだ核爆弾を爆発させるという。

 一方、奥深い山中で環境調査に従事していた山岳ガイドの狩野哲也は、炎上して墜落していく軍用機を目撃する。狩野は助手の清水篤史とともに、軍用機からパラシュートで降下した者を追っていくが……。

 舞台、背景、キャラクター。この三つが魅力的であることが、面白い冒険小説の最低条件ではないだろうか。本書の舞台は屋久島だ。屋久島は周囲約百三十キロメートルのほぼ円形の島である。面積の九十パーセントが森林で、千メートル以上の山が四十五座もある。島のほぼ中央にある縄文杉はあまりにも有名で、多くの登山客が訪れることで知られている。島自体はさほど広くはないが、尾根や山道、あるいは獣道が交錯する複雑極まりない地形を有している。この〈洋上のアルプス〉と異名を取る特異な島で、徒手空拳に等しい島の男女が、訓練された軍隊相手に戦いを挑むのだ。

 本書には架空の時代背景が設定されている。それが、およそ一年前に北朝鮮で内乱が起きたという〈事実〉である。軍が二つに割れ、反乱軍側が優位に立ち、キム・ジョンウンは対外的には行方不明だが、実際は身柄を押さえられているらしい。親ジョンウン側であるヨンギル将軍による屋久島占拠は、単なるテロにとどまらず新たな世界大戦の引き金になりかねない行動なのである。

 舞台、背景の次は人である。屋久島の山々に精通している高津夕季や狩野哲也。そしてある特別な使命を帯びた朝鮮人民軍特殊作戦軍の部隊長……。彼ら、彼女らの魅力は本書を読んでいただくのがいちばんだろう。

 なぜ人民軍の英雄であるリ・ヨンギルが、反乱軍との戦いをやめ、故国を脱出し屋久島に向かったのか?

 その疑問と謎を抱えながら、複数人物の視点による細かいカット割りで進んでいく物語は実にスピーディー。各章に記されている日付と時刻にも注目。時間が巻き戻されるカットバックを使っておらず、時間がどんどん進んでいくことがわかるはずだ。これは核爆弾爆発というタイムリミットと、物語の推進力を際立たせるための工夫であり、趣向であるのだろう。

 圧倒的に不利な状況に置かれた者たちが見せる必死の反撃こそが、あらゆる冒険小説の醍醐味である。そこに地の利と人智を超えた何かが加わる。

「奇跡は何度でも起きる。ここはそういう島なのだ」という言葉に本書のすべてが込められているのではないか。

 今一度くり返そう。本書は樋口明雄の新たな代表作だ。

西上心太

角川春樹事務所 ランティエ
2021年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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