【聞きたい。】宮下規久朗さん 『聖母の美術全史』 本能に訴える「母なるもの」
[文] 黒沢綾子
「死をたくさん目にするような人間の危機において、マリアは力を発揮する。『聖母』は古くて新しいテーマだと再認識した。今こそ聖母だ、と」
昨年4月、バチカンでフランシスコ教皇は復活祭のミサをあげ、新型コロナウイルス禍の克服をネット配信で世界に呼びかけた。かたわらに、有名な聖母のイコン「サルス・ポプリ・ロマーニ(ローマ民衆の救い)」が掲げられていたのが印象的だったという。
本書は聖母のイメージの変遷を、世界的視野で丁寧に追った一冊。神学的には神ではなく、聖書にもわずかな記述しかない聖母マリアが、なぜ美術史を牽引(けんいん)する主要なモチーフとなり、祈りの対象となり、人々に癒やしを与える存在として愛されてきたかに迫る。
特にキリスト教の拡大とともに、聖母が土地ごとの女神と習合し、独特の図像を生み出していくさまが面白い。地中海沿岸ではイシスやアルテミスら女神と、中国では媽祖(まそ)と、日本では観音菩薩と…というふうに。熱心なカトリック信者の多い南米なども「マリア像が布教に果たした役割は大きい。残念ながら今回紹介できませんでしたが、アフリカに息づく聖母もユニークなものがあります」。
融通無碍(ゆうずうむげ)に広がる聖母のイメージは、一宗教の枠さえ飛び越え、普遍性をもつ。「苦しいときに人間が本能的に求める『母なるもの』を具現化しているからでしょう」
もともと「聖母」は、大学の授業などで繰り返し教えてきた十八番(おはこ)のテーマ。ステイホームの期間に、集中して執筆できたという。
特に美術やキリスト教に興味のある人に手に取ってもらえたら、と語る。「西洋美術の主要な要素を占めている『聖母』が分かれば、もっと面白くなるはず」(ちくま新書・1375円)
黒沢綾子
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【プロフィル】宮下規久朗
みやした・きくろう 美術史家、神戸大大学院人文学研究科教授。昭和38年、名古屋市生まれ。東京大大学院修了。『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』でサントリー学芸賞。近著に『ヴェネツィア』『闇の美術史』など。産経新聞大阪本社版夕刊に「欲望の美術史」を連載中。