博覧男爵 志川節子著
[レビュアー] 和田博文(東洋大教授)
◆世界目指した「博物館の父」
ペリーの黒船が浦賀に来航したのは一八五三年。上野の動物園の開園は八二年。幕末から明治初期の三十年間は、激動の時代だった。修好通商条約、尊王攘夷(じょうい)、明治維新、戊辰戦争、西南戦争などの政治史や外交史は、本書では後景に退けられる。その代わりに前景化されるのは、「博物館の父」と呼ばれた田中芳男の歩みである。
飯田城下近くの村の、ゆかりある屋敷の天井に掲げられていた五大州・五大洋の世界地図は、田中が目指すべき場所という、象徴的な意味を担っていた。名古屋に赴いて伊藤圭介門下となり蘭学や本草学と向き合う。江戸では蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕するが、時代は蘭語から英語に移ろうとしていた。身体の移動は、田中をより広い世界へ誘っていく。
六七年のパリ万博で出品するため、田中は伊豆などで虫捕りをした。それは単なる昆虫採集ではない。洋書から知識を得るだけの一方通行が、異文化間の交流へと変化する。大河ドラマの主人公、渋沢栄一が加わった使節団の一員として渡仏。航路の寄港地では、植民地の現実を目の当たりにした。都市改造中のパリで、田中は驚愕(きょうがく)する。展観本館は鉄骨とガラスを使用し、エレベーターまで備えていた。
田中が最も関心を抱いたのは、ジャルダン・デ・プラント(パリ植物園)である。国立自然史博物館や動物園や植物園が、広い敷地内に併設されていた。博物という言葉は、広く物を知るという意味を含んでいる。大政奉還の翌日に帰国した田中は、博物学を基礎とする総合施設を作りたいと願う。大英博物館やサウスケンジントン博物館を目標にする、町田久成や佐野常民の考え方と、その思いは少しずつ共振していく。
田中の伝記はすでに刊行されている。美術博物館が田中芳男展を催したこともある。しかし時代の激動を背景に、人を配置し動かすことで成立する臨場感は、小説でなければ味わえないだろう。満六歳でアメリカに留学した津田梅子や、若き日の高村光雲(光太郎の父)も、さりげなく登場する。近代誕生のドラマを実感させてくれる一冊である。
(祥伝社・1980円)
1971年生まれ。作家。著書『春はそこまで 風待ち小路の人々』など。
◆もう1冊
関秀夫著『博物館の誕生 町田久成と東京帝室博物館』(岩波新書)