「時間」とは何か? 一日の長さは一定か? 上田岳弘が読む、滝口悠生の最新長編『長い一日』

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長い一日

『長い一日』

著者
滝口 悠生 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065236147
発売日
2021/06/30
価格
2,475円(税込)

書籍情報:openBD

「時間」はきっとこの小説のような形をしている

[レビュアー] 上田岳弘

 エッセイ連載のはずだったものがいつの間にか長編小説の連載に変わっていった、という本著。読者諸賢は「そんなバカな!」と思われるかもしれないが、文学業界とは恐ろしいところで、時々そんな奇妙なことが起こる。

 小説は散文が優勢でありさえすれば、韻文でも詩でも戯曲でもなんでも飲み込んでしまえるから、エッセイから小説へと変態を遂げることだってもちろんその範疇だ。そんな成り立ちの本著には、作家の実人生/実生活を元手にした、さりげない視点移動によって、夢の中の出来事のような心地よい「時間」が横たわっている。

 長い一日もあれば、短い一日もある。それは「そう感じる」という主観の問題であって、ウラシマ効果が出るほどの高速移動をし続けるのでない限り、だいたいにおいて一日の長さは一定であるはずだ、……とそう聞かされてもにわかには信じがたい。だって、あの日は退屈で退屈で本当にとにかく長かった。それから、別のあの日は何をやっていたかすら思い出せないほどに忙しくて、あっという間に過ぎさった。長い一日と短い一日。でも後から思いかえしてみると長かったはずのあの一日はまるでほんの一瞬のことのようで、あっという間に過ぎたはずの別のあの日は二四時間とは思えないほど長く感じられる。当日だけではなくて、一日は後からでもその長さを変えるらしい。

 ところで、最新の物理学の一説によれば、時間というものはそもそも存在しないらしい。つまり、基礎物理学の計算上では過去と未来は区別できない。けれど、もちろん我々は事実として過去の痕跡は認識できるが未来の痕跡は観測できず、例えば古い家に過去についた傷は視認できるものの、未来につくはずの傷は視認できない。これには熱力学の法則が関係していて、熱は高いところから低いところへと流れ、その逆はないからで、熱も世界を構成する要素だからこれにあわせて世界は一方向に流れるように見える。今ここで世界と書いたが、これはあくまで熱から自由でない人間にとっての世界である。人間という観察主体を反故にしてしまえば、時間経過を演出する熱の移動すらも相対化され、「時間」は霧散し、「世界」は、すっかり終わってしまったか、あるいはこれからまっさらに始まる一塊のものとして表現される。そんな一塊のものを、固定観念を抜きにして文章にしたならば、きっとこの小説のような形をしている。

 私―を想像する妻―を想像する私―、と無限にメタ化可能な半超越的な視点で伸縮を繰り返す語り。けれど人間は今のところすべてを認知できるわけではないから、もちろん語りの射程から外れてしまうことだってある。

 作中で窓目くんの言う通り、「思い出せないからといって、そこになにもないわけではない」のであって、そこに仄かな慈しみを感じられる時、自身の不完全性と他者の存在を愛せる可能性が生じる……、などとふっと考えるのは、きっと長くて良い一日の終わり頃。

河出書房新社 文藝
2021年秋季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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